三庄夏まつり
お盆子供の集い
因島中庄町の光明寺で16日「お盆の夕べ子どもの集い」が行なわれ、およそ250人が参加した。全員が本堂に正座し合掌し、松浦恵観座主の話を聞いた。焼香の意味の説明を受け、全員が体験した。境内に準備されたイカ焼やかき氷などの夜店を楽しんだ。
遠泳のすすめ 平山助成代表に聞く
瀬戸田と佐木島間の遠泳大会は2日、第20回大会を終えた。主催した「せとの海に遊ぶ会」代表の平山助成さん=写真=に話を聞いた。大会を知らせる文章のなかで平山さんは次のように想いを語っている。
「かつて島の子供達は、夏になりますと毎日、海で泳ぎ真黒に日焼けをして、島の子だと一目で見分けがつきました。
誰でも泳ぐことが得意で、多くの水泳選手を輩出しておりました。しかし、最近はサンセットビーチ等の特定の場所でしか泳ぐことが出来なくなり、泳げない子供達が段々と増えつつあります」
平山さんは幼少のころ、自宅の前の瀬戸田水道で一日中泳いでいたという。
事前の練習重視
遠泳は泳げないと参加できない。大会前に泳ぎの指導に力を入れた。往年の選手が小学校の水泳の授業で泳法を先生方に協力して指導した。夏休みにはいると町内のB&Gプールで水泳訓練を実施した。
海の行事なので安全に万全を期した。泳者の近くでは瀬戸田高校生がボードを漕いで万が一に備え、その外側に遊魚船が監視船として伴走しながら、緊急事態に対処した。
また、泳ぐ子供達の班ごとにベテランの泳者が付き添って泳いだ。
遠泳には潮の流れの判断が不可欠である。したがって大会日程は必ず、日曜日の「大潮の満潮時」が選ばれる。泳ぎやすいからである。
集団での泳ぎ方にも配慮がなされている。先陣を切るのはベテラン泳者。2列になり、左右のふたりが声を掛け合いながらペースをあわせて泳いでいく。泳ぎが遅い者が前部を占め、その後に速い者が位置した。
この日参加した54人全員が直線800メートル(実質1,300メートル)を泳ぎ切り、笑顔でゴールした。
椋浦町伝統の法楽踊り 海岸で保存会が披露
ようこそ因島へ 関東の囲碁愛好家17人 秀策記念館で親善対局
来年度、百歳超高齢者向け「銀杯」を経費節減
更地の夏草が歳月の移り変わりを走馬灯のように心にめぐってくる。なかでも因島南部の商店街はシャッター街へと加速。新旧の商店が廃業、朝夕の造船業従業員の通勤ラッシュをのぞけば閑古鳥が鳴いている昨今。それでも島しょ部の人たちは因島を都会だとショッピングにやってくる。
なかでも隣接している上島四島は因島の商圏に入るが県外というカキネがあり、広島県内では生口島とは古来からの文化のプライドがあり、平成の合併も旧瀬戸田町は三原市を選ぼうとしたが断わられ、やむなく尾道市に白刃の矢を向け直した経緯もあり、島同士でいがみあう場面も出てきている。
こうしているうちに国交省は24日、2016年度から10年間の中国地方の地域づくりの指針となる中間案を示した。そのなかで広域で産業や観光地づくりをあげている。
ところで今年も老人の日がやってくるが、百歳を迎える高齢者に贈る「銀杯」を経費節減のため来年度から銅やニッケルを混ぜて経費節減をはかるのだそうだ。
(村上幹郎)
ケアホーム「ひだまり」で夏祭り賑わう
因島観光ガイド養成 現地講座受講者募集
因島観光ガイド・つれしお会が、ガイド養成現地講座の受講者募集を行なっている。
問い合わせは、TEL090-7370-4848舟橋さんまで。
講座は次の通り。
- 9月10日 因島大橋空中散歩(向島~大浜)
- 10月15日 久保田権四郎翁縁の地(大浜)
- 11月12日 白滝山石仏と一大パノラマ(重井)
- 12月10日 因島水軍城(中庄)
- 12月10日 寶鏡山金蓮寺水軍墓地(中庄)
【平成28年】
- 1月14日 青影城址(中庄)
- 2月11日 茶臼山城址(中庄)
- 3月10日 本因坊秀策囲碁記念館(外浦)
- 4月14日 岩脈(鏡浦)
- 5月12日 生口橋ウォーク(田熊)
- 6月9日 昭和レトロとお抱え地蔵尊(土生)
- 7月14日 美可崎城跡と鼻の地蔵尊(三庄)
- 8月11日 石灯籠・艮神社(椋浦)
- 9月8日 にほんの里100撰(重井)
- 10月13日 因島公園(土生)
瀬戸田高校と因島高校がオープンスクール 中学生が模擬授業
中学3年生を迎えて高校生活を体験してもらおうと瀬戸高校で21日、因島高校で26日、オープンスクールが開催された。
瀬戸田高校
生口島内外の中学生29人が参加。生徒会執行部が学校紹介=写真右=をし、その後、英語、国語、理科の模擬授業と交歓会を行なった。
自転車部、バドミントン部、卓球部、しまおこし部が交歓会に参加し、中学生から高校生活や部活などの質問に受け答えをした。
この日、校内で、同校出身の映画監督・川本直人さんが中心になり、第4回瀬戸田映画祭を開催した。
22日、瀬戸田町地蔵院の灯篭流しに生徒有志がボランティアで参加した。
因島高校
因島島内3校をはじめ180人の中学生が参加。体育館で学校の紹介をし、その後、各施設を案内し、説明を行なった。
模擬授業は、国語、地歴公民、数学、理科、保健体育、美術、書道、外国語、家庭=写真下、工業、福祉の11教科にわたった。
つづいて部活動の体験と見学。運動部は、硬式野球▽体操▽バレーボール▽ソフトテニス▽卓球▽サッカー▽陸上▽バスケット▽バドミントン▽剣道。
文化部は、書道▽美術▽囲碁将棋▽華道▽吹奏楽▽マンガ研究▽茶道。
歌集「瀬戸乃水泡」上梓 大西貴志男さん(因島椋浦町)
因島椋浦町の砂文字短歌会会員の大西貴志男さん(83)が歌集「瀬戸乃水泡」を6月、上梓した。「水泡」は「みなわ」と読む。
大西さんは椋浦町に生まれる。三原工業学校卒業後、因島高校普通科に入学・卒業。因島郵便局に勤務。同局局長を最後に退官。それまで20年間、中国5県・12局に勤務。同町の区長会長、宮総代などを務める。因島汽船(株)社史を編纂。
この歌集の作品は著者の人生を歌ったものである。
大西さんは「あとがき」に次のように記している。
「私も私なりの所業の節々を残しておきたいという願望が、いつの頃からか心に芽生えていた」
さらに大西さんはつづける。
「瀬戸内に生まれ島の海辺で育った、渚の水泡に等しい自分が、八十三年も生かされ、縁あって作歌の技を授かった。拙い作品でも折々の生き様を、精魂こめて記したものを歌集として残すことができれば、これに勝る喜びはないと思い立った。」
彼はおよそ1500首の歌を詠み、そのうち568首を歌集に収録した。
砂文字短歌会主宰の池田友幸さんは「跋」として一文を書き、次の言葉を寄せている。
「集中の短歌作品の中には、五六八首、著者らしい場面の切りとり、言葉の選別。さらには三方を山に囲まれた椋浦町という地域性、伝統行事にかかわる作者像が見える」
歌集は、因島図書館と尾道中央図書館に所蔵されている。
四国遍路スケッチの旅【53】42番札所 仏木寺(愛媛県宇和島市)
42番札所 仏木寺(愛媛県宇和島市)
41番龍光寺から県道31号を走ること10分、ここ42番仏木寺に到着する近場だ。
道路沿いの駐車場に車を止め、真新しい山門が我々を待ち受ける感じだ。
しかし、私は山門をくぐることなく、早々とスケッチに取りかかる。巡拝の方は、同乗の妻に委ね、私は道路沿いで中腰の姿勢でのスケッチである。
何故この場所を選んだかと言えば、少しは変わった視点で構図を選んで描きたかったからで余り意味はない。
おそらくこの寺は、道路拡張によって境内の一部を道路に提供したのであろう。道路沿いのお寺であり、石垣や土塀が未だ新しい感じがした。
そんな思いをめぐらしながらスケッチしていると遍路一行の団体さんが、ぞろぞろとバスから降りて山門へと向う。
程無く参拝を終えた妻が帰って来たので、次の43番明石寺へ向う。
今日は宇和島・大洲方面へ松山自動車道を快走す。
のどかな田園が広がる三間平野の一角に41番龍光寺がある。ここは、かつて神社と一体となった神社習合の社寺とかで山門の代わりに鳥居、仁王像の代わりに狛犬であり、長い石段を上って立つ赤い鳥居も稲荷神社を思わせる一風変った寺である。
又、大師堂のそばには七福神の像が並び神社の色の濃さを物語っている。
さて、スケッチは思案の末、本堂へ上る山段の前で供養塔、忠魂碑を配し、この寺の特色の鳥居を描いたが、立ったままの姿勢でのスケッチで雑な一枚だ。
(絵・文 大橋博)
「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【24】第五章 運命の電話
(3)対馬丸撃沈事件の生存者数(原則は「不明」としたうえで、おおよその目安として次の数字が記されている)
漁船・哨戒艇により救助された疎開者 | 一七七名 |
船員・砲兵 | 八二名 |
奄美大島に漂着して救助された人 | 二一名 |
合計 | 二八〇名 |
昭和19年(1944)7月7日のサイパン陥落を機に日本政府は沖縄県庁あてに「沖縄島、宮古島、八重山島から老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」と打電した。疎開命令である。沖縄から8万人を本土に、2万人を台湾に移すことになった。
しかし、沖縄は留まるも地獄、去るも地獄の状態に追い込まれていたのである。こうした戦況のなかで対馬丸の惨劇は起きたに違いないのである。
「ガイドブック」を読んで初めて、那覇市に激しい空襲があったことを知った。昭和19年10月10日のことである。いわゆる「十・十空襲」である。市街地およそ90%が焼き尽くされ、死者225人、負傷者358人が出た。
この空襲後、一般疎開者が急増した。翌年の3月までにのべ九州と台湾に県民8万が疎開した。
因島の三庄空襲で亡くなった仲宗根一家は大阪に避難し、それから三庄に疎開してきた。おそらく十・十空襲直後に九州に行き、陸路大阪に向ったのではないか。
私は、送られた資料のなかで少しでも不明なところがあると、メールで野原さんに質問を発した。それに対して彼女は、即答してくれたり、必要とあれば調べたうえで丁寧な返信をくれた。
「ガイドブック」の「九州の学童疎開」という項に、「また、空襲で亡くなったり、栄養障害や病気で亡くなった学童もいました」の記述を見つけた。さっそく質問のメールを送った。
野原さんの返信が届いた。
その引用は琉球新報発行の「沖縄学童たちの疎開」からです。
戦火を逃れるために学童疎開したはずが、宮崎県西小林にて沖縄出身の2名の学童がグラマンの機銃掃射を浴びて死亡しました。西小林の駅を出征家庭の農作業に向かう途中に、低空飛行をしてきたグラマンが襲撃してきたと書いてあります。
沖縄出身者2名を含め10名死亡、18人が重軽傷を負いました。西小林小学校には亡くなった人たちの「殉職者の碑」が建立されています。
宮崎県児湯郡高鍋町においても、沖縄の泊国民学校の学童たちが疎開した上江国民学校の学童たちが塩田作業中に襲撃されましたが、幸いにもけが人はありませんでした。
私は昨年秋に沖縄に行き、取材を受けるために琉球新報社を訪ねた際に、「沖縄学童たちの疎開」を購入した。
野原さんが、感想集「対馬丸の記憶」とともに「四葉のクローバー」の入った手紙を送ってくれた。その文末に次のように記されていた。
記念館の屋上にはシロナツメクサが繁殖していますが、その中に四葉のクローバーが生えている時があります。確率は10万本に1本だそうです。花言葉は幸せを運ぶ…そうです。何かございましたら、ご遠慮なくお問合せ下さい。遠い沖縄からでもお役にたてればと思います。
(青木忠)
四国遍路スケッチの旅【54】43番札所 明石寺(愛媛県西予市)
「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【25】第五章 運命の電話
私に再び気力がみなぎり始めた。始まった対馬丸記念館の野原さんとの交流の力は大きかった。
昭和53年(1978)に対馬丸遭難者遺族会によって発行された「記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸」が届いた。それには野原さんの手紙が添えてあった。
―お世話になります。私のメールへいつも丁重な返事をありがとうございます。
私はここへ勤めて4年になります。当初は派遣の事務員として契約の範疇で仕事をこなす単調な毎日でした。
しかし勤務するうちに、遺族や生存者の方々の話や本を読み、この方々が無償で一生縣命に記念館の事や、犠牲者の為に尽くす姿を見るうちに自分の中でも変化があり、「私にできる事があれば些細なことでも協力したい」と考えるようになりました。
私自身にこんな心があったとは…と驚きでもあります。青木さまの文章にあるように「あきらめることなく」を最近学ぶことが多いです。(後略)
野原さんの一言一言が、壁にぶつかり打ちひしがれていた私の内面に沁み込んでいった。やりとりは主にメールである。その回数が増える度に私は活気づいていった。
仲宗根さん一家が三庄空襲で亡くなったことは分っている。しかし、その家族の実像が一切浮かんでこないのだ。それに迫るために自分なりに手を尽くしたつもりだ。では今後どうすればいいのだ。
こうした場合、経験的にはじっと耐えるしかないのである。辛抱し、我慢するなかで、ひらめきにも似たきっかけをつかみとるのである。私は野原さんとのメール交換を通した会話を重ねながら、闘志を回復させ、チャンスの到来を待った。
もうひとつ苦悶する私を励ましたものがあった。それは、「対馬丸記念館公式ガイドブック」に掲載されている対馬丸事件犠牲者の遺影である。とりわけその大多数を占める学童のそれである。
遺影になった学童の一人ひとりが、遠く離れた瀬戸内の島で亡くなった仲宗根家の子供たちに思えた。何度も何度も見たのである。
やがて野原さんからひとつの示唆を受けた。小学校への調査を強めるということである。学童疎開で因島の三庄町にやってきたのなら仲宗根家の子供たちは地元の小学校に通学しているはずだ。
急いで小学校の教頭に面会し、当時の在校者名簿を見せてもらえないかと頼みこんだ。しかし、あるのは卒業者名簿で在校者名簿はないとの返答だった。卒業者名簿には、7月28日の空襲で死亡した仲宗根家の子供たちの名が載っているはずはなかった。
やはり駄目か。私は追いつめられてしまった。もう打つ手はないのか。空襲当時、私の父は三庄小学校の教諭であった。その父に聞けば何か知っているに違いない。後の祭りである。他界して何年も過ぎた。
思い余って私は、大阪府に住む長姉に電話を入れることにした。空襲当時、彼女は10歳である。もしかしたら何か分るかもしれない。
しがみつく想いで私は事情を説明し、仲宗根家のことを覚えていないかと尋ねた。
「よく覚えているわ。仲宗根さんの家の一番上の女の子は私と同級生なんよ」
思いも寄らぬ返答であった。何ということであろう、必死に追い求めた事実は私の最も身近なところに潜んでいたのである。
(青木忠)
やまなみ街道 にぎわう尾道御調町道の駅「クロスロードみつぎ」
中国やまなみ街道(尾道―松江線)が開通したのが3月22日。瀬戸内しまなみ海道と山陽自動車道が交わる”十字路”として拠点となるのは尾道市と思われていた。
いざフタを開けて見ると、尾道・府中・三原市からそっぽを向かれる事が多かった尾道のやまなみ側の南玄関口として御調町が”にぎわい”を生んでいるようだ。尾道北インターチェンジ(IC)から約5分。お盆を古里で―と、帰省ラッシュがピーク時であったこともあって尾道の道の駅「クロスロードみつぎ」は島根や鳥取、関西地方のナンバープレートで駐車場は満車でてんやわんや。
駅長さんの話だとこの4カ月で入場者は17万6760人。前年同期より約1・5倍増。全通を視野に市が2億円余をかけて施設をリニューアル。地元産食材を使ったレストランの営業や野菜市を新設、駐車場を増設したことなどが予想以上のお客さまをもてなしできていると胸を張る。
尾道北ICは無料通行できる最終区間。リピーターに期待したい。
(村上幹郎)
内海造船瀬戸田 タンカーが進水
2015因島水軍まつり 若い力が全体を牽引
1カ月にわたった因島水軍まつり。島まつり、火まつり、海まつりに5万1100人が参加した。
29日の火まつりは雨中に行なわれ、例年にない涼しさのなかで、帰還する水軍を跳楽舞で迎えた。跳楽舞はねくらべに10チームが参加。
30日は小早レースの海まつり。一般の部で、平均年齢17歳のチーム「烈風」が優勝し、若い力の台頭を感じさせた。小早レースには、一般、女性、小中学生の54チームが出場した。
跳楽舞
大賞=スタジオSHIP踊り隊=写真▽優秀賞=因島南中跳楽隊、尾道市消防局チーム「ニコラス」、なかのしょうようちえん☆きりん隊▽特別賞(心がひとつになったで賞)=RIKASANS。
小早レース
【1部】
- 烈風=写真
- 小覇王
- くらげ
- 一世風靡
- 尾道市役所・男魂
- 権兵衛
- 尾道市消防局にこらす
- 41会
- 達磨
- ジャパンマリンユナイテッド海坊主
【レディース】
- 小覇王レディース
- 笑龍~婆娑羅~
- 尾道市役所ちから娘
【小学生】
- 因南魂
- 勝組パイレーツ
- 栗北SOUL
【中学生】
- 一笑入魂 SOUL
- 因島南中学校「天」
- 笑龍~紫電~
日本棋院因島支部60周年 プロ棋士3人を招き記念対局と懇親会
日本棋院因島支部(須沢弘明支部長)は12・13日、本因坊秀策囲碁記念館(因島外浦町)などで、支部設立60周年行事を行なう。
同支部が設立されたのは昭和30年5月。それ以来、9代の支部長のもとで活動をつづけてきた。囲碁が因島市の市技として制定されたのが平成9年のこと。市町村合併後も尾道市の市技として継承されている。
当日、日本棋院の石井邦生九段=写真上、山本賢太郎五段、水戸夕香里三段が招待される。
- 12日(土) 午後1時、指導碁(本因坊秀策囲碁記念館)▽午後5時、懇親会(ホテルいんのしま)。
- 13日(日) 午前9時、記念対局(本因坊秀策囲碁記念館)。指導碁が午前10時と午後1時。
囲碁文化の継承願う 日本棋院因島支部長・須沢弘明さん
因島の囲碁は、歴代の支部長の力で本因坊秀策生誕の地として栄えてきた。市技として制定されたことは感謝に堪えない。
昭和30年代、市の人口の一割の4200人が囲碁を楽しんでいたという時代だった。職場の昼休みに囲碁や将棋を行い、夜は外灯の下で「バンコ」に碁盤をおいて時間を忘れた。今、囲碁を伝承する者としてそうした時代を懐かしく思い出す。
愛好家の高齢化が進んでいる今日、若い世代への囲碁の普及にいっそう力を注ぎたい。
来年の全国高校総合文化祭に向かって因島高校囲碁部に期待している。支援を惜しまない。小中学校や公民館での囲碁活動への指導員もいつでも派遣できる。
因島の誇るべき囲碁文化の継承と発展のためにご協力を願うものであります。
日本棋院因島支部 設立60年の歩み
歴代支部長
- 村上知祥
- 半田一也
- 中本堅吉
- 岡野直行
- 岡野義隆
- 柏原信一
- 清水喜和
- 村上栄昭
- 須沢弘明
日本棋院普及活動賞
- 柏原信一
- 村上栄昭
- 西河盛人
- 福井盛人
- 庄原正徳
因島支部の歩み
昭和30年 | 日本棋院因島支部設立 |
昭和55年 | 第1回本因坊秀策囲碁まつり |
昭和58年 | 第8期囲碁名人戦第2局(シーサイドホテル) |
平成8年 | 因島囲碁協会設立 |
平成9年 | 因島市が囲碁を市技に制定。第52期本因坊戦第1局(ナティーク城山・尾道市因島土生町) |
平成10年 | 因島市囲碁のまちづくり推進協議会発足 |
平成11年 | 第23期棋聖戦第4局(シーサイドホテル) |
平成13年 | 第26期名人戦第3局(ナティーク城山) |
平成14年 | 第27期碁聖戦第3局(ナティーク城山) 第1回本因坊秀策杯、第50期王座戦第2局(ナティーク城山) |
平成16年 | ![]() 第28期棋聖戦第4局(ナティーク城山)。2月18日、山下棋聖右対羽根直樹九段左。 第30期天元戦第3局(ナティーク城山) |
平成17年 | 第43期十段戦第1局(ナティーク城山) |
平成18年 | 第61期本因坊戦第3局(西山別館) |
平成20年 | 本因坊秀策囲碁記念館開館 |
平成21年 | 第33期棋聖戦第3局(ナティーク城山) |
平成24年 | 第1回女流秀策杯 |
平成25年 | 第38期名人戦第2局(西山別館) |
平成27年 | 第39期棋聖戦第3局(ベラビスタ境ガ浜) |
瀬戸田高校の冊子「巡り人」英語版がついに完成 生徒12人の苦労実る
「しまのわ2014」に連携して瀬戸田高校しまおこし事業部が発行した冊子「巡り人~生口島・高根島の人と語る旅~(サイクリング編)」の英語版が7月に完成した。
しまおこし事業部は生徒会公認のサークル。昨年、部員がふたつの島の住民に取材し冊子を作りあげた。
さらに今年、しまなみ海道を訪れる外国人サイクリストにも読んでもらおうと英語版作成を企画した。英語版は日本語版の単なる翻訳ではなく、新しい取材を行い、外国人にも分りやすくするために地図などを追加した。
作成に関わった生徒は12人。取材、翻訳、地図、時刻表、構成など役割分担をして、約11カ月をかけて完成させた。
発行部数は3000部。宿や観光案内所など島内各所、尾道市、今治市、そして東京の銀座TAUなどに配布した。
ACHOUふるさと公演 立見がでる満席の盛況
国際ソロプチミストしまなみ認証10周年記念チャリティーコンサート「ACHOUふるさと公演」が6日、瀬戸田ベルカントホールであり、立見の出る満席になった。
ACHOU(アチョウ)さん=写真右=は因島田熊町出身の元宝塚月組の華央あみり。コンサートは彼女の歌とトークで進行した。
ピアノ演奏は、福山市出身の片山朗らか子(ほがらかこ)さん=写真左。
トークに笑いが起こり、ふたりの歌と演奏に聞き入った。