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Channel: せとうちタイムズ(尾道市因島・瀬戸田地域の週刊新聞)
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グローバル化の時代 因島高校校長・金山正行

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金山正行校長昨今「グローバル化」ということが声高に言われ、国も広島県も重要な施策として掲げています。

すべてのことが世界的規模で動き、社会経済から一人一人の日常生活に至るまでグローバル化が急速に進んでいます。日本は日本だけで生きていくということはできないのです。

生徒がグローバル化した社会で生き抜いていく広い視野と感覚を持つために、昨年度から台湾修学旅行を実施しています。私も実際に行き、発展した国の様子や生徒の豊かな人間力などに触れ、目を開かされたところです。

小さな世界に閉じこもらず、異なる文化・生活・習慣と触れ合い、理解し、様々な場で世界的視野を持って活躍するとともに、国際社会の平和と発展に貢献できる人になってほしいと願っています。


瀬戸田から佐木島に54人が遠泳やりきる

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瀬戸田・しまなみ遠泳大会

第20回瀬戸田・しまなみ遠泳大会が2日、瀬戸田と佐木島間で行なわれ、参加者54人が完泳した。主催はせとの海にあそぶ会(代表・平山助成)。

直線距離は約800メートルだが、潮の流れの影響で実質1300メートルを泳いだ。

参加したのは、地元の小中学生と水泳愛好家たち。

瀬戸田高校の生徒10人と教師3人はライフガードなどの役についた。付き添い、監視、救助艇など総勢141人が大会を行なった。

参加者の最年長は、尾道市栗原町の清水昭作さん84歳。さらに向東町の宮本豊さん79歳、高根島の清水満幸さん78歳。

来年は、8月7日(日)午後1時30分スタート。

瀬戸田・しまなみ遠泳大会

瀬戸田・しまなみ遠泳大会

福島の子供たち 瀬戸田で海遊び

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福島の子供たちが今年も、瀬戸田町を訪れ、海遊びを楽しんだ。福島県いわき市の幼稚園児と小学生と両親4人が7月25日~29日まで同町荻の民家を借りて、瀬戸内の生活を満喫した。この行事は今年で4年目。

瀬戸田キリスト教会が中心の「福島の子どもを呼ぶ会」が支援を行なった。

因島大橋、多々羅大橋を見学したり、サンセットビーチ、弓削松原海岸で泳いだ。

因島にようこそ 都竹宏樹さん(シンガーソングライター)

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都竹宏樹さん

一昨年の10月、招かれて因島を訪れ、この島を大好きになったシンガーソングライターがいる。都竹宏樹(つづくひろき)さん36歳である。

都竹さんは東京を中心に活動している。2011年4月、NHK総合テレビ「のんびりゆったり路線バスの旅」のテーマソングに彼の作品「青いバス」が採用され、全国区へ。

番組で流れたこの曲は、元因島土生町区長会長の故髙本豊さんの心をとらえ、「いい曲だね」と娘の山崎恵理さんに語りかけた。

山崎さんは東京に飛び、ライブ会場で都竹さんに「因島に来てください」と直談判。ひとつ返事で「行きます」と即決。

それ以来、今年8月で5回の来因。因島のどこが魅力かとの質問に、都竹さんは「海と夕日、白滝山に心が癒される。曲が作れる島だと感じた」と語る。

8月28日に尾道に初登場する。午後7時「ジョンバーガー」。

29・30日、因島水軍まつり出演。

取材場所:ペーパームーン(因島土生町)

甲子園県予選善戦で活躍 因島高校野球部

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因島高校野球部メンバー

甲子園広島県予選1回戦で明王台を5―3で破り、2回戦でも基町高相手に0―3と善戦した因島高野球部。

8年ぶりに初戦突破を果たした宮下太輔監督に話を聞いた。

1年を通じた活動と練習ができたことが大きい。その自信をもって試合に臨むことができた。チームに結束力があった。

全員が因島と生口島の部員で編成されている。新チーム1年6人、2年8人の14人。ただちに練習試合に入っている。今秋の広島県大会出場をめざしている。

来夏の甲子園予選の目標はベスト16である。

四国遍路スケッチの旅【51】64番札所 前神寺(愛媛県西条市)

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64番札所 前神寺(愛媛県西条市)

64番札所 前神寺(愛媛県西条市)

今日は一日で一ヶ寺のみのぜいたくな日程である。

順番通りに行かず、その都度の気分で行先を定め、区切り順拝の結果、一ヶ寺だけ取り残されたような64番前神寺である。

勿論、まだ全部回ってはいないが、近くの石鎚神社への初詣とかねて済ませておきたいことから、一ヶ寺のスケッチ日程となったものだ。

石鎚山と縁が深く、新年ということもあり、石鎚神社への参拝客が多く賑わいのある寺だ。

スケッチする場所選びに思案したが、妙に本堂の屋根が神社風で気にかかり、石段の上から描いた一枚だ。

(絵・文 大橋博)

「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【22】第四章 宿命なのか

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生まれて間もなく私に何があったのか。機会があれば調べてみたいと思うようになった。夢にも思わなかったチャンスが訪れた。生まれ故郷に住むことになったのだ。私に定められた運命の糸をたぐり寄せる時がきたのである。

戦争によって生後十カ月で命を失いかけたことを知らされたのは小学校4年生の学校における誕生会でのことである。校長としての父は、複式学級の3・4年の児童と保護者の前で、祝辞を述べた。

「忠君は赤ちゃんの時、空襲で死に掛けました。それでもここまで元気に成長しました」

得体の知れない恥ずかしさを感じた私は思わずうなだれ、周りを正視できなかった。それ以降、父も私もその話題に触れることをしなかった。

それから四十数年後に真相を知った。父は、生母と祖母が身を投げ出して生後十カ月の私を救ったことを告げた。まさしく驚天動地の心境だった。

私が生母から引き離されて祖父母に育てられたことも初めて知った。なぜ生母清子は40歳で死ぬことになったのか、その理由を知りたくなった。

死ぬ間際の病床に横たわったままで祖母が手を広げ、私においでおいでをした。しかし私はそれに応ぜず、露骨に嫌悪の表情をして身を翻した。祖母は優しく笑った。小学校四年のことである。

なぜ祖母の最後の願いに私は身を委ねなかったのか。今はその罪深さを思い知るしかない。その光景を思い出すたびに涙が込み上げるのである。

以前には思いつかなかった生まれ故郷での住み直し。きっと生母と祖母が私を呼び戻したのであろう。私は彼女たちへの追慕の色彩の強い空襲調査を始めた。ところがである。その実態は想像をはるかに超えたものであった。

「工場への攻撃の流れ弾が運悪くわが家に当たった」との内輪の言い伝えと正反対の連合軍による本格的な空爆だったのである。生まれ故郷の島がまるごと戦場だったことに気付いたのである。そのことを五十代半ばで知ったのである。何といううかつさであろう。無知蒙昧とはこういうことを言うのだろう。

やがて私は、わが家の敷地に投下され私を仮死状態に陥れた一発の爆弾が隣に住む、疎開してきた沖縄の家族を死に追いやったことを知ることになる。当初は、この悲しき因縁の意味を理解できなかった。

空襲体験、学生運動、人生をかけた沖縄闘争への決起、20年を超す裁判闘争。こうした自らの人生体験が一本の糸筋に導かれたものではなく、バラバラのものとしてしか自覚できなかったのである。

しかし、ある瞬間から、おのれの人生は幼き空襲体験を土台に形成されていったのではないかとの想いを強くするようになる。同じ爆弾で死んだ仲宗根家の人たちとは、私にとってどういう人たちなのか――狂おしいまでの自問自答が始まった。

その仲宗根家の消息を懸命に調べ始めた。地元の行政や寺院、沖縄県庁や沖縄のマスコミに問い合わせてみたが、手がかりになるものは何も見つからなかった。

次第に追いつめられていった。知りたいという想いが募るもののどうやって調べてよいか全く検討がつかないのだ。

もうこれが駄目なら諦めてしまおうと覚悟して、沖縄のある団体に電話を入れた。何の見込みのない試みであった。昨年の3月のことである。

(青木忠)

松江城天守が国宝に指定

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戦国時代に姫路まで勢力を伸ばした毛利元就一族。関ヶ原の戦い後、長州・萩へと追い込められて、吉田松陰ら民兵が徳川幕府に対しクーデターをおこし幕末を膳立て、薩長連合軍で近代日本が誕生した。

萩に隣接している石見(いわみ)の浜田城や松江城主は何をしていたのだろう。作家司馬遼太郎によれば徳川三百年の平和ボケで戦いを忘れた武士族は白旗をあげることも知らなかった。あげくの果て浜田城主は城に火を放ち、自らは側近を小舟に乗せて海上に逃走、降伏の意を伝えたという。松江城は城の周囲が堀川でかこまれており城のある島根半島を攻めるには橋一本で日時がかかると判断、湯茶と食料を準備してお通りを願ったそうだ。

このうちの一つである松江城天守が国宝に指定されることになった。関ヶ原の戦いで出雲、隠岐の領主となった堀尾氏が築城1611年に完成、現存する全国12天主の一つ、国の重文から国宝になったものの今後、城をまちづくりにどう生かすか新たな課題となっている。

(村上幹郎)

関連リンク

国宝・松江城ホームページ


因島猟友会が総会

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因島猟友会(瀬島惠会長)の総会が7月23日、因島市民会館で開催された。

有害鳥獣の捕獲実績が発表され、今年度の捕獲実施計画数が確認された=写真左。イノシシ300頭、カラス300羽など。

 

因島猟友会

イノシシ被害深刻化 因島三庄町7区・9区 がけ崩れ誘発の危険

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因島におけるイノシシ被害が深刻化し、住宅地のがけ崩れを誘発する危険が出てきている。

因島三庄町7区の豊田悦夫さんの自宅裏の、5区枕谷に通じる斜面が餌を掘り出すイノシシによって広範囲にわたって崩されている。

豊田さんは「このまま放置するとがけ崩れに繋がりかねない」と不安を語る。

7月7日には地元出身の福原謙二尾道市議が現地を視察した。

因島三庄町9区の多田一さんの自宅裏の山が、イノシシによって荒らされ、崩れ始めている。その結果、大木の根元が現われるようになっている。

多田さんは「このままでは裏山の大木が倒れ、自宅を直撃し、押しつぶしてしまう」と迫る危険を訴えている。この現場にも福原市議=写真下=が訪れた。

豊田さんは因島総合支所に行き、窮状を訴えたが、安心できる回答をもらっていない。

イノシシ被害

因島水軍城特別展 日本遺産認定記念「村上水軍と港町尾道」

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尾道市が日本遺産に認定されたことを記念した、因島水軍城特別展「瀬戸内の覇者 村上水軍と港町尾道」が7月31日に始まった。

前期が10月21日まで。後期は10月23日~1月28日。午前9時30分~午後5時。木曜休館(祝日を除く)。大人310円(団体30人以上210円)、小中学生150円(団体30人以上100円)。

展示内容は次の通り。

  • 因島村上氏関係資料(因島水軍城所蔵品)
  • 港町尾道関係資料 木造千手観音立像(重要文化財)写真パネル▽尾道史跡出土資料▽岡島城跡と関の大将。
  • 武具の種類(太刀・甲冑・兜・やがらもがら他)
  • 特別出品・和田竜先生の「村上海賊の娘」のゲラ刷り・イラストパネル。

問い合わせ】因島水軍城 TEL0845-24-0936。

因島水軍城特別展 日本遺産認定記念「村上水軍と港町尾道」

亀甲山八幡宮本殿(因島田熊町)修理工事8月下旬に完成

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亀甲山八幡宮本殿(因島田熊町)

昨年9月からつづいている、因島田熊町の亀甲山八幡宮本殿の保存修理工事が8月末に完成する。

同本殿は江戸末期天保六年(1835年)に再建され、当時の装飾性の高い神社本殿の代表例である。手の込んだ彫刻とともに美術的にも優れた建物であるとして尾道市重要文化財に指定されている。

しかし、屋根を中心に老朽化が目立ち、蟻害、雨漏りもひどく、昨年3月に本殿保存修理事業実行委員会(村上重三委員長)が結成され、その後工事が開始された。

すでに7月26日に見学会が開催された。10月2日に盛大な遷座祭りがある。

写真は完成間近かの田熊八幡宮。

尾道水道が日本遺産に認定

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尾道水道

尾道水道が文化庁から日本遺産に認定された。いまさら―と言う人も多いが古老から聞いた話だが、戦前、中国の要人が国鉄山陽線尾道駅に降り立つと「日本にも大きな河がある。しかも水がきれいだ」と賛美。案内役がこれは瀬戸内海の一部だ、と耳打ちしたという。

その昔は中世にさかのぼり、歴史的な舞台となり下関、浪速と並んで商都としての役割を果してきた。「海が見えた…」と林扶美子が車窓の風景に感激。箱庭のような瀬戸の風情に酔いしれた志賀直哉。千光寺の文学の小路をたどれば敗戦後の商都尾道の復興は早かった。その反面、都市計画の遅れが目立ち山側のわずかな土地にへばりつくように建てられた住居など地域振興の実現は道半ばである。

幸い平成の市町大合併による特例債が5年延長されたので地域振興の役割を果す事で住民との信頼関係を再構築すべきだという声も耳に入ってくる。

良港として繁栄し多くの寺院、路地や坂道からの景観を生かすか難題山積だ。

(村上幹郎)

ACHOUさん ふるさと公演

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ACHOU

国際ソロプチミストしまなみ(村上恵子会長)は9月6日(日)午後1時30分瀬戸田ベルカントホールで因島田熊町出身の元宝塚男役・ACHOUさんの「ふるさと公演」を開く。開場1時。ピアノ演奏・伴奏は片山朗らか子さん。

これは、同クラブの認証10周年を記念したチャリティーコンサート。入場料3000円(全自由席)。

ACHOUさんは、元宝塚月組の華央あみり。後援は尾道市・尾道市教育委員会など。

問い合わせ】TEL0845-22-7021、携帯090-7971-3460

関連リンク

ACHOUオフィシャルブログ

日本棋院因島支部 60周年記念大会

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今年5月に発足60周年を迎えた、日本棋院因島支部(須沢弘明支部長)は9月12・13日、記念囲碁大会を開催する。

12日(土) 指導碁(午後2時)▽懇親会(午後6時)。いずれもホテルいんのしま。

13日(日) 記念囲碁大会(午前9時30分)、対局と指導碁。本因坊秀策囲碁記念館。

両日、石井邦生九段▽山本賢太郎五段▽水戸夕香理三段が参加する。

日本棋院因島支部

日本棋院因島支部メンバー

本因坊秀策囲碁記念館

本因坊秀策囲碁記念館にて


因島高校定時制 小早に参戦

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因島高校定時制の「THEていじぃ」チーム=が30日の水軍まつり「海まつり」の小早レースに出場する。生徒10人と教職員6人がメンバー。

本番に向けて懸命な練習に励んでいる。17日、漕ぎ手10人が、戸田修三教諭の掛け声に合わせて練習。昨年につづいて2回目。上位をめざす。

THEていじぃ THEていじぃ THEていじぃ

因島水軍まつり 跳楽舞と小早レース

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因島水軍まつりの跳楽舞はねくらべ(29日)と小早レース(30日)の参加チームはそれぞれ、10チームと54チーム。

跳楽舞はねくらべ

尾道市消防局チーム「ニコラス」▽なかのしょうようちえん☆きりん隊▽スタジオSHIPおどり隊▽因島南中跳楽隊▽三庄美可崎隊▽田熊おどり隊▽布刈~因北中~▽RIKASUNS▽とんとこ・とんとこ・とんてん隊▽一休さん。

小早レース

【一部】因島福祉連合(わかば・あおかげ)▽41会▽アイメックスボイラチーム▽アイメックス機環チーム▽イワキテック因島工場▽因の島ガス▽島人▽田熊火消屋▽内海造船SALUDⅢ▽内海造船新入社員チーム▽TEAM MANDA▽ジャパンマリンユナイテッド海坊主▽ジャパンマリンユナイテッド山坊主▽一世風靡▽HIRO▽権兵衛▽小覇王▽達磨▽因島鉄工グループ▽烈風▽三和ドック▽シンチャオ サンワ▽くらげ▽弐心▽弐心R▽教職員▽広銀水軍パワーズ▽THE ていじぃ(因島高校定時制)▽もみじ銀行「ALL INNOSHIMA」▽尾道市消防局にこらす▽接骨院ゑべすや▽尾道市役所 男魂▽オービーパワー▽岡本製作所▽尾道高校ラグビー部ブリカンズ▽尾道高校ラグビー部クーちゃんズ。

【レディース】小覇王レディース▽尾道市役所ちから娘▽笑龍~婆娑羅~▽妃伝馬▽教職員チャレンジ。

【小学生】勝組パイレーツ(因南小)▽因南魂(因南小)▽パイレーツ・オブ・因北小▽栗北SOUL。

【中学生】因島南中学校「天」▽百花繚乱(重井中)▽一笑入魂SOUL(因北中)▽一笑入魂SMILEⅠ(同)▽一笑入魂SMILEⅡ(同)▽因島南中学校「地」▽因島南中学校「人」レッド▽因島南中学校「人」ホワイト▽笑龍~紫電~。

はっさくんが再び挑戦 ゆるキャラグランプリ

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人気が広がる、因島のイメージキャラクターはっさくん=写真=が、ゆるキャラグランプリ2015にエントリーした。昨年広島県1位の実績をひっさげての再挑戦で、日本一をめざし県内連覇を狙う。投票は17日に始まった。11月16日まで。県下では33体、全国では1715体がエントリーしている。(投票はコチラから

問い合わせ】TEL0845-22-2211(因島商工会議所・元気な因島づくり特別委員会)

はっさくん

四国遍路スケッチの旅【52】41番札所 龍光寺(愛媛県宇和島市)

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41番札所 龍光寺(愛媛県宇和島市)

41番札所 龍光寺(愛媛県宇和島市)

今日は宇和島・大洲方面へ松山自動車道を快走す。

のどかな田園が広がる三間平野の一角に41番龍光寺がある。ここは、かつて神社と一体となった神社習合の社寺とかで山門の代わりに鳥居、仁王像の代わりに狛犬であり、長い石段を上って立つ赤い鳥居も稲荷神社を思わせる一風変った寺である。

又、大師堂のそばには七福神の像が並び神社の色の濃さを物語っている。

さて、スケッチは思案の末、本堂へ上る山段の前で供養塔、忠魂碑を配し、この寺の特色の鳥居を描いたが、立ったままの姿勢でのスケッチで雑な一枚だ。

(絵・文 大橋博)

「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【23】第五章 運命の電話

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一本の電話がこんなに私の行先を左右するなんて予想もしなかった。昨年三月にかけた、沖縄の対馬丸記念館への電話はそのような意味を持っていた。
「初めてお電話いたしますが、広島県尾道市因島の青木というものです」
あまり体験したことのない緊張にいささか口調が上ずっていたが、強引に用件を切り出した。
「昭和20年に私の町で空襲がありまして、沖縄から疎開してきていた仲宗根さんの家族が亡くなりました。そのことを調べているのですが、どのようにしたらよいのか分らなくて困っています」
応対をしてくれたのは野原淳子さんという女性である。彼女の受け答えが私を落ちつかせたのか、
「こんなことになるのなら、三〇年前に沖縄に入りびたっていたころに対馬丸記念館に行けばよかった」
私は思わず軽口をたたいてしまった。三〇年前とは破防法裁判で沖縄に行っていたころのことなのだが、後に私の話のいい加減さに赤面してしまった。記念館が開館したのは二〇〇四年八月のことなのである。
野原さんはそのことにはふれず、
「とにかく対馬丸の資料を送りましょう」
と言ってくれた。
間もなくして、「対馬丸記念館 公式ガイドブック」などが届いた。気持がつながったと思えて嬉しかった。それは、写真をふんだんに使った、百十三ページにおよぶ本格的な冊子だった。私はむさぼるように読んだ。ほとんどすべてが初めて知る事実である。
対馬丸は昭和十九年八月二十二日夜十時十二分ころ、アメリカの潜水艦ボーフィン号によって撃沈された。トカラ列島悪石島の北西約十キロの地点である。那覇市の八校の国民学校生徒をはじめ、沖縄県内各地からの一般疎開者ら一六六一人を乗せて前日の夕方、九州長崎に向って那覇港を出航した。船出した海は、アメリカ潜水艦によってすでに十七隻が沈められていた。危険を覚悟した出航であったのである。

冊子に「『対馬丸』に関する基礎データ」という一枚の紙が挟まれていた。その冒頭に次のように記されていた。
――「対馬丸」に関する確かなデータは一つもありません。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被害実態調査がされませんでした。このことも対馬丸撃沈事件の本質として、ぜひ語っていただけたらと存じます。

懸命な調査活動が、関係者によって今なお継続されていることに気付いた。
つづいてデータが項目別に記載されている。
①対馬丸の乗船者
疎開者(学童集団疎開、一般疎開)一六六一名
船員                八六名
船舶砲兵隊員            四一名
合計              一七八八名
②対馬丸撃沈による犠牲者
疎開者(学童)     七八〇名
(訓導・世話人)  三〇名
(一般疎開)   六二七名
船員           二四名
船舶砲兵隊員       二一名
合計         一四八二名
※ただしこれは二〇一二年八月二二日までに名前が判明した数で今後もご遺族からの申告があれば増え続けます。

(青木忠)

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