新会長に聞く 国際ソロプチミストしまなみ・村上恵子会長
本因坊秀策囲碁まつり 蘇九段が賞金百万 高校生9人が運営協力
プロアマ各6人で争う本因坊秀策杯は蘇耀国(そようこく)九段(日本棋院)=写真右=が優勝し、賞金100万円を手にした。準優勝30万円は中野寛也九段(同)。
第67回本因坊秀策囲碁まつり(尾道市囲碁のまちづくり推進協議会主催)が11・12日、因島市民会館などで行なわれ、およそ600人が参加した。
決勝は蘇九段が中野九段を中押しで下した。
アマ出場者は、福井盛人(因島)▽神宮司直輝(京都府亀岡市)▽小野拓馬(吹田市)▽徳弘晴彦(生駒市)▽湯浅英之(東京都)▽服部清彦(大阪市)▽吉松昭三(福山市)▽福岡健二(三原市)。惜しくも全員が初戦で敗退した。
因島高校生が手伝い
来年8月の第40回全国高等学校総合文化祭が広島県で開催され、囲碁部門がびんご運動公園である。そのホスト校が因島高校に決まっている。その大役を果たすために因島高生9人が、秀策囲碁まつりの運営に参加した。



クラス別戦には237人が出場した。
【尾道棋聖】
- 伊瀬英介(東京都)
- 深美修一(豊中市)
- 峯松昌彦(尾道市)
【6段以上】
- 魚返真史(高松市)
- 望月義仁(広島市)
- 山本逸夫(同)
【5段】
- 佐藤昌弘(尾道市・囲碁のまちづくり推進協議会会長)
- 桝田哲夫(三原市)
- 田頭晏広(尾道市)
【4段】
- 松冨功(倉敷市)
- 岸田一男(尾道市)
- 柏原弘(同)
【3段】
- 安保浩吉(尾道市)
- 村上友康(同)
- 村上昇(同)
【2段】
- 井上利之(福山市)
- 川西栄(東広島市)
- 杉野原克利(尾道市)
【初段】
- 田中光行(倉敷市)
- 石田昭二(福山市)
- 上岡正吉(尾道市)
【級位】
- 福島太郎(尾道市)
- 村上伸人(同)
- 浦部信義(竹原市)
「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【20】第四章 宿命なのか
広島大学千田町キャンパス正門で私に何が起きたのか。その真前にある広島赤十字・原爆病院。そこでは今なお被爆者が闘病生活を送り、力尽きて亡くなる患者がいるというのである。
瀬戸内の島からやってきた18歳の私はそうした事実を受け止めることができなかった。学生運動をしてはいけないと説教した広島大出身の担任教師は、原爆病院のことを一切語らなかった。無防備な私の学生生活はすっかり混乱させられたのである。
学生生活のすべてが空しくなってしまった。あらゆる講義がつまらなくなり、ほとんど出席しなくなった。友人に野球部入部を誘われたがその気になれはしない。
現在の地平からふり返ってみるに、広島大学正門において、原爆投下という事実と私の生後十カ月の空襲体験が初めて交錯したのではないかと思えるのである。
もっとも大学1年の私は自らの空襲体験をほとんど自覚的にとらえ直してはいない。しかし、広島の原爆という圧倒的な事実が、幼き空襲体験を呼び覚まし、私の全身を揺さぶり、内面を貫き、えぐったのではないか。もはや以前の私には戻れない。私は根底から変わったのである。
大学2年になるや私は「大学生らしい生活」を送ることを決心した。私の「大学生らしい」とは、自分で考え、信じる道を真っ直ぐに歩んで行くということである。自治会のクラス委員を友人から引き受けた。そしてクラス内に大学生らしい空間を作り出そうと動き始めた。
私は大学を「自由の王国」と夢想していた。それ故に殺人的な受験戦争さえ耐えることができた。事実、その過程で私の精神は病んだ。抑えがたい青春のほとばしりを禁圧したままの日々であった。もし、1週間でも受験生活が延長されたならば私はもたなかっただろう。
ここまでの犠牲を払ったというのに大学というところは私には高校の繰り返しにか見えなかった。与えられたカリキュラムのもとで単位習得に汲々とする学生たち。単なる職業訓練学校にすぎないではないか。
いったん立ち止まり、自分の人生を考え、いかに生きるべきか共に語り合ってみたかった。確かに私は教師を志望して大学に入学した。しかし、私は職業としての教師である前に、ひとりの人間でありたかった。人間としての切磋琢磨を通じて成長し、教職の道へと進みたかった。
やがて私は学生運動に決起する。だが既成の学生運動は嫌だ。それに自らを合わせるのではなくて、ゼロから希望にあふれた運動を自分の力で創造したかった。
夏休みに学生運動への決意を固めた私は、大学構内でデビューする前に、大阪市の中ノ島公会堂で開かれた「全国反戦集会」に誘われて参加し、その後、人生初めてのデモをした。そのデモの終了後に不思議な体験をすることになるのである。
デモの解散地点も中ノ島公園で、そこは何組もの恋人たちで賑わい、その近くをデモ隊は通過していった。恋人たちには、それは見慣れた風景らしく、彼らはデモ隊に関心を示さない。
日常と非日常の衝突――学生運動に決起することの厳しさに気付かされた。「何のために誰のために私はデモをしているのだろうか」という不安を感じたことを忘れることができない。
夏休暇明けとともに大学キャンパスで私は弾けた。折しもその秋に米国原子力潜水艦が横須賀ないしは佐世保に寄港するという。それを食い止めるために私の青春は躍動したのである。
(青木忠)
四国遍路スケッチの旅【50】78番札所 郷照寺(香川県多度津町)
「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【21】第四章 宿命なのか
ベトナム戦争下の米原子力潜水艦の初寄港である。ベトナム戦争への日本の加担強化は明らかであった。加えて、放射能汚染に対する危機感が学生内に高まった。
私のキャンパスデビューは鮮やかであった。一気にリーダーになった。一気呵成、猪突猛進という表現がピッタリだった。同時にあくまで明るかった。私の周囲には絶えず笑顔が溢れた。
これは私の人生の新しい出発であると同時に日本の学生運動の新たな開幕の合図だった。六〇安保闘争の高揚と沈滞から3年後、学生運動は七〇安保に向って胎動を開始したのである。
それから2年も経ずして私は、全国的な運動の再建のために上京し、広島大学の青木から全学連の青木になった。
何も怖くなかった。ただただ前進あるのみである。呆れるほどのエネルギーである。それは「若さ」だけでは説明つかない何か別なものであるように思えた。
私の決起は宿命だったのではないか。
生後十カ月で米軍の空襲にやられた。母と祖母とともに生埋めになり、生死の境をさまよった。この時、復讐を誓ったのである。そして私は仮死状態から生還した。何のためか。わが家とわが家族を奈落の底へと落とした奴らに仕返しするためである。
わずか生後十カ月の赤子にそのような意識と意志が成立するだろうか。それは私にも分らない。しかし、その後の数奇な運命を、「幼き空襲体験」抜きに説明することはできない。そのように考えると実にスッキリするのである。
やがて私は運命的に沖縄問題に出会うことになる。沖縄返還=沖縄本土復帰の政治過程と私の学生運動は完全に重なったのである。そして沖縄闘争に関する演説が破壊活動防止法の扇動罪に問われ、沖縄との強い繋がりを持ちながら二十年余の裁判を闘うことになる。ここにも宿命を強く感じるのである。
人生の始まりにおいて私は、学童疎開で私の家のとなりに沖縄から引っ越してきた仲宗根家の母子六人とともに同じ爆弾の攻撃を受けた。6人は即死し、私は生き残った。
この体験が私の沖縄問題への覚醒と無関係と言えようか。「赤子の空襲体験」が大学生になった私の内面で突然動き出したとは考えられないだろうか。
人生が四十代後半にさしかかったころ、ひとつのドラマが生まれた。ライフワークと決めていた東京での政治活動にあっさりと区切りをつけて、家族を連れて生まれ故郷に舞い戻ってきた。
ありえないことだ。そもそも私は、弱冠22歳にして志に基づき上京した際には、「箱根の山を一旦越えたからには、二度と生まれ故郷に住むことはない」と誓ったはずである。
上京して二十数年、すっかり生活基盤は東京にあった。東京生まれで埼玉育ちの女性と東京目黒に所帯を持ち、ふたりの子供をもうけた。政治活動から引退した後もそのままその生活を継続すればよいではないか。
しかし私はそうしなかった。まったく正反対の道を選択した。私の内面に何が作用したというのか。
故郷に住み直すにいたる動機は数種類あった。そのなかでも幼いふたりの子供を瀬戸内の島で育てることが主なものであったと言えよう。私を育んだ環境のなかで子供たちも成長してほしかった。
だがそうした動機とはまったく異なる次元のものをかすかに私は意識していた。自覚できなかったが、何か目に見えぬ力が私を動かしたようだ。
(青木忠)
「海の日」記念式典 永年勤続など14人表彰
20日の「海の日」を記念して22日、ポートピアはぶで記念式典があった。因島・瀬戸田地区の海事関係功労者表彰と海の図画ポスターコンクール金賞受賞者の表彰があった。
海事関係功労者表彰は、中国運輸局長からの永年表彰11人、感謝状3人。
【中国運輸局長表彰】
船舶(造船)関係=《永年》冨岡一敏(内海造船)▽稲田哲生(同)▽岡野浩旨(同)▽野嶋宣男(同)▽横井道夫(ジャパンマリンユナイテッド因島)▽森信幸(同)▽田頭康男(同)▽岡野光也(同)▽石井公則(三和ドック)▽上田栄太郎(同)▽武部信昭(アイメックス)
【中国運輸局長感謝状】
船舶(造船)関係=《功労》竹下道徳(因島技術センター)▽小林宏行(同)▽工藤尚明(同)
【国土交通大臣表彰】
海運(内航海運)功労=東谷正樹(東栄汽船)▽岡本信也(全国海運組合連合会理事・岡本海運)=海運(海事代理士)功労=谷原繁(一社日本海事代理士会理事・海事代理士)=船舶(造船)功労=石田正憲(石田造船)=船舶(舶用)功労=石倉一親(一社中国舶用工業会理事・石倉ポンプ製作所)=船舶(造船)永年=杉岡光教(江田島造船所)▽椙原英行(三井造船玉野)=港湾(港湾運送)永年=冨田泰雄(サンカイテクノス)=船員・優良船員=藤丸和紀(防予フェリー)
因島高校一年生99人 平和教育講演会開く 地元の空襲テーマに
因島高校(金山正行校長)一年生99人は17日、平和教育の一環として、「因島空襲」を取り上げ、講演会を開いた。
講師は、空襲体験者2人と調査活動を行なった卒業生の3人。
最初に因島中庄町の星野正雄さん(88)が工場での体験を語った。星野さんは当時「芯出工場」で働いていたが、7月28日空襲の攻撃を受けた。彼は命拾いをしたが、作業場近くの仮防空壕で圧死している仕事仲間を目撃した。星野さんはその際に受けた機銃掃射の銃弾を生徒に見せた。
次に土生高等女学校の学徒動員で日立造船因島工場勤労課に勤務していた、田熊町の山下松栄さん(86)が話した。
「敵機が来た」の声で近くの防空壕に逃げた。壕をでると岸壁に繋がれている日寅丸が燃え上がっている光景が眼前にあった。遺体や負傷者の実態掌握のために因島病院や善行寺に行った。
8年前に課題研究として因島空襲を調べ、県教育委員会「ことばの輝きコンクール」で最優秀賞に輝いた卒業生の青木望さん(26)が東京から駆けつけて話をした。
空襲について他人事ではなく「自分事」として考えて欲しいと語りかけた。
最後に生徒を代表して田坂祐夏さんが「郷土の歴史や祖父母がどう生きてきたのか知った。平和を維持するために努力していきたい」と語った。
遠泳20回記念大会によせて 瀬戸田高校水泳部 黄金期を回想
瀬戸田から佐木島をめざす「瀬戸田・しまなみ遠泳大会」(8月2日午前10時30分)が今年で20回を迎える。それを記念して瀬戸田高校水泳部を回想してみよう。
昭和37年のサンケイ新聞の連載「先輩後輩」が瀬戸田高校をとりあげ、同校水泳部の大活躍を二回にわたって記述している=写真右=第一次黄金期は昭和23年~25年。神川祐康さん、鎗屋敦三さん、堂崎治好さん、山本孝司さん、平野鉄彦さんが活躍した。県大会などで相次いで優勝している。
瀬戸田高校水泳部の第二期黄金時代は、和気統さんと片岡輝男さんの入部で始まった。
2年のとき和気選手は、昭和33年(1958)に東京で開催された、第3回アジア大会の200メートル平泳ぎに出場し、3位になった。
片岡選手は高校3年生の時に全国大会の100メートル背泳ぎで2位になった。その後、和気選手は日大、片岡選手は立教大に進学する。
サンケイ新聞の連載は次のように結んでいる。
「和気、片岡両選手は現在、東京オリンピック候補選手七十九人(大会に出場するのは三十九人)の一員に選ばれ、猛練習に励んでおり、瀬戸田町民は、選手に選ばれ、日の丸の旗をあげるよう声援している」。
大山神社夏越祭 泣き相撲に湧く
中庄の地蔵堂に三百年記念石塔
因島椋浦町に祖先持つ 青木昌彦名誉教授死去
8・6瀬戸田中「アオギリにたくして」
瀬戸田中学校(槇村廣郎校長)は6日、同校体育館で映画「アオギリにたくして」の上映会を行ない、全校生徒170人と教職員が鑑賞した。
上映前に、槇村校長と地元の被爆者である梶川春登さんが挨拶した=写真。
その後1分間の黙祷を行なった。
因島・三庄空襲70周年 犠牲者追悼の集い 9人の子供の死に涙
200人近い犠牲者が出たと推測される昭和20年7月28日の因島三庄空襲。その70周年にあたる28日、三庄町七区の空襲現場で追悼の集いが開催され、遺族、体験者、地元住民ら36人が出席した。
会場には小さな祭壇が置かれ、対馬丸記念会の野原淳子さんから送られた沖縄のお菓子が供えられた。
主催者の青木忠さんが三庄空襲で亡くなった仲宗根家の5人をはじめ9人の子供への追悼の言葉を述べ、全員で黙祷を捧げた。
平谷祐宏尾道市長の追悼文を松山英夫因島総合支所長が代読。髙本訓司尾道市議会議長が、空襲犠牲者に対して追悼の言葉を贈った。
沖縄の対馬丸記念会の外間邦子理事の追悼メッセージが紹介された。
この日の行事への関心は高く、新聞2紙、テレビ3局が取材に訪れた。沖縄の2大紙「琉球新報」と「沖縄タイムス」が翌日記事を掲載した。
今後も引き続き調査活動と追悼の営みが続けられる。
故郷への手紙「帰省」
青木めぐみ
電車で十四時間。
こんなにも因島を恋しく思うようになるなんて。例年より少し早い時期の休暇。時間をめいっぱいかける電車の旅が、私の定番。
時間と景色の流れとともに、少しずつ私の中の空気を入れ替える。
離れている距離を感じながら帰る故郷は、さらに特別な存在になった。今回の帰省には理由があった。
因島空襲から七十年が経過した。
父が生きて七十年が経つ。「慰霊行事を家族揃ってやりたい」
父から電話があった。
「…帰らなきゃ」
使命感のようなものを感じた。弟は、仕事を終えてすぐ新幹線で駆けつけた。私は、予定を変更し休暇を取得した。
こうして、家族四人が揃う初めての慰霊行事に臨んだ。場所は、七区神田。
祖父の家があった場所。幼少期遊び回った場所。そして、0歳の父が生き埋めになり助けられた場所だ。
私たち家族が今生きていることが、奇跡に近いことだと感じた。
父が助からなかったら、母とは出会わなかった。弟も私も生まれてはいなかっただろう。空襲を知らない世代にとっては、風化しつつある歴史の一部に過ぎないかもしれない。
しかし、私にとっては歴史にする訳にはいかない確かな事実だと自覚した。私のルーツでもあるからだ。
今はまだ知る立場。
今後伝える立場になりたいと思う。
それが、私の役目だと感じている。今回の帰省、故郷としての因島が私の一部にあることを改めて実感した六日間だった。
楽生苑夏祭り 地踊り楽しむ
しまなみ苑 花火1200発
瀬戸田の小中高 合同研修会開く
瀬戸田地区の小中高の教員が6日、瀬戸田市民会館で合同研修会を開催し、教員ら59人が参加した。同地区の児童生徒の発達段階に応じた系統的な指導を継続的、体系的に行い、児童生徒の「人格形成」をめざす。
講演は、瀬戸田町荻出身で広島大学大学院教育学研究科の小原友行教授が「島を創っていく人材を地域で育てる」をテーマに熱く語った=写真。
活動の活性化 瀬戸田高校PTA会長・寺岡保幸
現在の母校は一学年1クラス。4クラスだった私たちの時代と比べ、観点を変えれば恵まれていると思います。
選択教科がたとえ1人であってもマンツーマンの授業が行なわれています。私は生徒が少ないことを有利ととらえています。
学校が進める英語検定チャレンジ(1・2年生全員受験)は大歓迎です。島の狭い暮らしから飛び出し、社会のなかで自分がどのくらいのレベルに位置しているか知る必要があります。
学校と連携し、家庭においても資格をとる意識付けを育んでいきたいと考えています。
PTAは副会長3人制と役員20人体制で活動の継続性と活性化をめざします。文化祭「鈴掛祭」での合唱参加、草刈りなどの校内清掃を取り組みます。同窓会「潮音会」、「瀬高会」のOBと協力した文化祭、夏祭りでのバザーの収益で自転車部創設を応援しました。
地域に貢献する人材 瀬戸田高校校長・佐伯明子
昨年度までの校長の経営方針を引き継ぎ、ミッションは「地域に貢献する人材の育成」です。
そして、「基礎学力の向上」「挨拶、服装指導の強化」「希望進路100%の実現」「島おこし事業部を中心とした地域貢献活動」を課題に掲げています。
本校は、平成23年度より県教育委員会より、「わたしたちの学校は日本一!」事業、「果敢に挑戦する児童・生徒への支援」事業の指定を受けており、生徒会を中心に「島おこし事業部」の活動を行なっています。
学校活性化に向けて今後の取り組みとして
- 冊子「巡り人~生口島・高根島の人と語る旅~」英語版の制作
- 本年度から自転車部を創部し、将来競技を目指すアスリートの出現も期待しています。
地域に根ざしたグローカルでグローバルな人材の育成を図りたいと考えます。
「ありがとう」の言葉 因島高校PTA会長・柏原功
今年5月の総会での講演会で、「ありがとう」という言葉は自分を幸せにするし、大切な人も幸せにするんだよと聞いて、なるほどそうだと思いました。
子どもたちや学校、PTA活動に関心を持ち、感謝の気持ちを忘れずに行動すれば、素直に「ありがとう」の言葉が溢れる、素晴らしい因島高校になると思います。
愛と夢と、ちょっぴりの勇気で子どもたちの「夢に向って」を先生方、同窓会の方々、地域の皆様、そして私たち保護者で応援したいと思います。
PTA活動紹介
健全育成委員会 生徒の安心と安全をめざすのがモットー。
校庭の草刈り清掃などのクリーンアップ作業、校門挨拶運動、花火大会などでの校外補導。
厚生委員会 保護者の親睦を深める。文化祭バザー、11月のアストロツアー(天体観測)。
文化広報委員会 PTA新聞「未来」の年3回発行(今年度からカラー化)。文化祭と体育祭など学校行事、進路状況を紹介。
進路学級委員会 進路講演会、上級学校訪問、就職内定者テーブルマナー講習会、学習合宿訪問。
総会は、年一回年度初めに開催。
少人数教育の特性生きる 因島高校定時制教頭・西本昌弘
少人数教育の特性が生かされている因島高定時制。
1952年土生高等学校因北分校開校、1955年定時制に機械科を設置して以降の伝統を受け継ぎ、今日があります。
生徒29人、教職員12人、聴講生8人。働きながら4年間通学することが基本ですが、最近、3年間で卒業する3修制希望者が増えています。
入学時から調理、美容などの進路を希望し、上級学校への進学をめざす生徒もいます。
本校の基本方針である「生徒のどのような進路希望にも対応できる」は、定時制も全日制も同じです。チームワークのとれた集中した指導によって生徒の可能性を見出し方向性を与えるように努力しています。
実績に自信
今春の卒業生14人の進路実績は、4年生大学2人、専門学校3人、就職9人でした。進学と就職面接の個人指導を強めました。その努力が実績に現われています。
定時制は、入学した生徒達が少人数教育の環境のもとでもう一度頑張りたいと再出発の場になっています。様々な課題をかかえている生徒たちが、新しい学ぶ仲間に出会うことで心を開き自信をつける結果も生まれています。
定時制のホームページへの関心が引き続き高まっており、他県からの見学もあります。就学相談はいつでも行なっております。基礎・基本の学力指導と社会への順応する力の育成にいっそう力を入れていきます。
水軍まつりへの参加、企業訪問、オープンスクール、文化祭など行ないます。