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Channel: せとうちタイムズ(尾道市因島・瀬戸田地域の週刊新聞)
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三庄の居住地の惨事 9人の子供が犠牲に

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昭和20年7月28日午前10時20分ころ、米英軍は日立造船三庄分工場と周辺居住地を爆撃した。

この空襲時刻は、自宅を全壊させられた私の実父・松本隆雄のノートに赤鉛筆で記されている。父は空襲当時、勤務先の三庄小学校にいた。「ふるさと三庄」(三庄老青会連合会)に手記を載せている。

「私はこの時学校におりましたので南の方をみておりました。三庄工場の方で爆弾が炸裂する地ひびきが数回しました。飛行機が去った後現地を見にいきましたら七区の私の家附近に池のような穴が出来て家は跡かたなく飛び散っておるのです。この附近の家も破壊されて大混乱でした。この時十数人の死者があったことを思い出します。

ひとりの赤子が

十数人の死者のうち、ひとりの赤子をはじめ9人が子供であることが分っている。それぞれの理由があったのであろう、防空壕に入ることができずに3カ所で犠牲になったのである。

松本隆雄が語る場所では沖縄から学童疎開をしてきた5人の児童が母親とともに即死した。長女は当時、三庄小学校の4年生で10歳だった。

仲宗根家の悲劇

その家族は仲宗根さん一家で、木造3階建ての「カキノ屋」に住んでいた。最近の聞き取り調査の結果、一家は1階に住んでいたことが判明した。

同じ1階で豆腐屋を営んでいた宮地家は生埋めになったものの辛うじて全員脱出できた。石うすなどの商売道具があったことが幸いし隙間があったという。

それに対して仲宗根家は全壊した家屋の重量が直撃し、圧死させられた。蚊帳のなかで全員が並んで死んでいたという。

生後10カ月の私も生埋めになったが救助され、仮死状態から生還した。同じ年頃の子供たちが亡くなったことを調査活動で知った時生まれて初めて感じた憎悪の念が込み上げてくるのを抑えることができなかった。

まもなく70回目の7月28日がやってくる。どのようにその日を迎えるべきか。亡くなった人々と再会し、心のなかで語り合いたいと思っている。

(青木忠)


三庄空襲の最多の犠牲者が出た現場(備後クラブの右前方)の地図
三庄空襲の最多の犠牲者が出た現場(備後クラブの右前方)の地図

神田まちなみと三庄工場

 


四国遍路スケッチの旅【47】68番札所 神恵院(香川県観音寺市)

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68番札所 神恵院(香川県観音寺市)

68番札所 神恵院(香川県観音寺市)

ここは68番神恵院と次の69番観音寺が同じ境内にあるという珍しい札所だ(納経は1ヶ所で済む)。

前回スケッチをうっかり間違って、観音寺大師堂を神恵院の本堂と思い描く失態をやらかしてしまった。

神恵院の本堂は、大師堂の奥にコンクリート造りで四角い箱のような建物で、「エーッこれが本堂!」の驚きで、とてもスケッチをする気にならない。思案の末、大師堂をスケッチ。

右奥には69番観音寺の薬師堂が見えるなど異色の配置の札所でのスケッチとなった。

次は徒歩30秒の69番観音寺である。

(絵・文 大橋博)

「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【18】第四章 宿命なのか

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長姉の話によれば祖父は、私の誕生をとても喜んだという。膝のうえに私をのせていつもニコニコしていた。祖父の私に与えた影響は大きい。

祖父は明治12年、福島県岩瀬郡鏡石村の柳沼久吉・シケの四男として生まれた。船に乗り機関長になった。明治43年に松本徳一の二女ヒサノと結婚。婿養子である。清子とトシエの二女をもうける。昭和29年妻ヒサノと死別。昭和40年死亡。享年85歳。私は大学2年であった。

空襲の際、生埋めになった私達の救助を要請したのは祖父である。必死であったであろう。妻ヒサノ、長女清子、孫忠が瓦礫の下でうめいているのである。同時にこの空襲を最も憎んだのも祖父だったに違いない。

私は空襲の調査を開始してまもなく、生まれて初めて心底から込み上げる憎悪の感情を抑えることができなかった。この心のたぎりは祖父伝播のものだったかも知れない。

祖父は小学生の私に毛唐(けとう)という言葉を頻繁に使った。西欧人に対する蔑称である。露助(ろすけ)というロシヤ人への蔑称も同様であった。

軍国主義教育の担い手から戦後民主主義教育の旗手に変化した父は、たとえ使いたくとも、こうした蔑称を使用するはずはない。しかし祖父は何らはばかることはなかったのである。

中学のころであろうか、祖父は私を畑仕事に連れて行ってはGHQによる戦後土地改革を罵った。「正直者は馬鹿を見た」と決まって言葉を荒げるのである。私はいささか違和感を感じつつも、「そういうものか」と納得させられた。

これらは、もしかしたら祖父の孫への思想教育だったのかもしれない。

まもなく祖父と私は「反米」という点で一致をみるのである。力道山のプロレスである。力道山は敗戦国民の英雄であった。米国人レスラーを空手チョップで次々となぎ倒す勇姿に熱く燃えた。

毎週金曜日の夜8時から九時、プロレス中継の時間帯、テレビは祖父と私によって独占された。ふたりは画面に釘付けになった。

昨秋、解体直前の実家のなかで懐かしい雑誌を発見した。ベースボールマガジン社が一九六四年に発行した「プロレス&ボクシング」である。これは、大学生になった私が、祖父が淋しいだろうと思って送ったものである。

プロレス雑誌が届くたびに祖父はとても喜び、震える字でしたためた葉書を私のもとによこした。死の直前だったのである。

そのころの祖父宛の私の葉書も出てきた。

「広島へきてから一週間すぎましたが
大分慣れました。この前の金曜日に
寮のテレビでプロレスを見ようと
思いましたが同室の人と映画を
見にいきましたので見られませんでした。
二十一日には広島でプロレスがあるそうですが
入場料が高いので行きません。もう少ししたら
家に帰って本とプレイヤーをもってこようと
思います。ではサヨウナラ」

私のプロレス熱は大学生になってもつづいている。そしてプロレスを通じたふたりの絆はいっそう固いものになっていたようだ。いまでも格闘技中継に胸をときめかす熱さは消えていない。

(青木忠)

来年7月で市制100周年 福山市

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福山市が来年7月1日で市制100周年を迎える。古い歴史をひもとけば島影を活用した商都尾道港や鞆の浦のような活況はなく城下町として存在。あえていえば陸軍福山連隊があったぐらい。そうしたことからか県東部の米軍空爆を受けた都市の一市にあげられる。

焼野原となった福山市だが日本鋼管福山誘致が決まってからは備後工業都市の先陣を走ることになった。それに加えJR新幹線の停車駅建設などの後押しなどもあり政治経済の備後の中心が尾道から福山市に移動し始めた。なにしろ製鉄所が建設されると20万人の人口が増えるという時代。巨大な煙突からたなびく煙を見ながら城下町から工業都市へと変身して行く福山市は「これでいいのか」と、当時の徳永豊市長は大気汚染を気遣った。

バトンタッチされた立石定夫市長は「小川にメダカが泳ぎ赤トンボが飛び交う都市づくりを」と呼びかけたが”鉄の町”の反応は薄かった。羽田皓市長は「市民総参加で思い出に残る100周年にしたい」というが―。

(村上幹郎)

しまなみビーチ 住民・企業が清掃奉仕

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因島観光協会と尾道せとうちライオンズクラブの30人は3日、海開きを前にしたしまなみビーチの清掃活動を行なった。

因島鉄工グループ(みやおか、メレック、瀬戸内産業)80人は8日、しまなみビーチの清掃を行なった。

因島鉄工グループ しまなみビーチ清掃

因島鉄工グループ しまなみビーチ清掃

また三庄本社工場の20人は同町4区の海水浴場を掃除した。

新会長に聞く 国際ソロプチミスト因島・松浦節子会長

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国際ソロプチミスト因島・松浦節子会長

地域に根付いた奉仕活動の継続と「夢を生きる女性たち」を支援したい。

「夢を生きる女性たち」とは、家族を扶養する責任を負い、経済的困難な状況で、より有利な就職をめざし、教育や技能訓練を受けている女性のこと。

因島公園の東屋清掃、邦楽祭チャリティ喫茶、子育てサロン支援(クリスマスプレゼント贈呈)、因島高校就職内定者鉢植えプレゼント、割り箸のリサイクル、古切手活用の資金援助。

設立31年目。入会9年目。

会長=松浦節子▽セクレタリー=鎌田孝子▽トレジャラー=恵谷千佳子。

尾道サイクリング協会 瀬戸田高校自転車部にロードバイク寄贈

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尾道サイクリング協会は8日、瀬戸田高校自転車部にロードバイク1台を寄贈した。

部員3人が尾道市長室で受け取り、箱崎雅史君が「サイクリングを楽しみ自転車の楽しさをPRしていきたい」と語った。

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瀬戸内のリフレッシュ レモンビーチで大清掃

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リフレッシュ瀬戸内 しまなみビーチ

「リフレッシュ瀬戸内」と銘打つ大清掃活動が5日、瀬戸田町のレモンビーチ(サンセットビーチ)で行なわれ、およそ小中高生や住民らおよそ1500人が参加した。約30分間で清掃活動を終え、つづく海開き行事を手伝った。

瀬戸田高校は生徒会執行部5人と教師2人が参加。3人の男子生徒は、カヌー体験のためのライフジャケット配布やカヌーの運搬・撤収作業。

瀬戸田高校生徒会執行部

女子2人は、魚つかみ取りの際の幼児誘導を行なった。

瀬戸田高校生徒会執行部


四国遍路スケッチの旅【47】69番札所 観音寺(香川県観音寺市)

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69番札所 観音寺(香川県観音寺市)

69番札所 観音寺(香川県観音寺市)

68番神恵院から徒歩で約30秒のここ69番観音寺だ。同じ境内という利便性はあるものの変化の乏しい風景ではある。

ただ本堂は、神恵院と大違いで古く歴史を感じさせる建物だ。(国の重要文化財)更に本堂前の楠の巨木はみごと。特に根張りのすごさに驚きスケッチ意欲をかき立てさせる。

鐘つき堂の下で天井の紋様を墨絵風に描いている女性が居て、しばらく立ち止まって見入ってしまった。

我に帰り、スケッチのペンを走らせ楠の巨木と本堂に二人のへんろ姿を描いた。

次は、帰路の道順の関係で77番道隆寺に回る予定だ。

(絵・文 大橋博)

「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【19】第四章 宿命なのか

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私の初恋は小学5年生の時である。

ほぼ同じ時期に政治と社会への目覚めが始まった。

私は最上級生になった。通う小学校は当時、NHKのラジオ放送を活用した視聴覚教育を重視していた。そのなかでも私の好きだったのは、「世界と日本の動き」をテーマにした番組である。そこで毎週、世界と日本の5大ニュースが発表されるのだが、児童たちはあらかじめそれを予想し、どれだけ一致するか競った。

私の予想は面白いほど当たった。新聞を読み、ラジオニュースにも関心があった。それをもとに夕食時、父親に矢つぎばやに質問したものだ。

今でも思い出すのは、1956年7月のエジブトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言、それにつづく10月のスエズ戦争開始、11月のソ連軍のハンガリーへの第2次介入などである。覚えているということは、それらの国際的事件が、後の私の思想形成に大きな影響を及ぼしたということであろう。

中学に入学するとクリスチャンの養母の信ずるキリスト教に幻滅することになる。

養母が家族の一員になるやまもなく、私たちはクリスチャンファミリーに変貌した。夕食の前に必ず祈りを捧げていた。私もかなり熱心で、中学2年のクリスマスまではキリスト教の集まりに出席していた。

事件は中学2年になりたてのころ皇太子の成婚パレードを巡って起きた。「神の前ではいかなる人間も平等」と信ずる私にとって、その行事は異様に思えた。ところが養母は、そのパレードのテレビ中継に無我夢中になっているではないか。

あきれてしまった。クリスチャンもいい加減なものだと気付いた。言行不一致は大嫌いだった。この事件が影響し、高校一年の時に養母からキリスト教の洗礼を受けるよう誘われたが、首を縦に振ることはなかった。

私の中高時代は、野球と受験勉強一色であった。当然にも政治や社会への関心は高くなかった。しかし、国民的大事件の六〇年安保闘争高揚の影響は私にとって小さくなかったようだ。高校一年の時である。

当時、再軍備の動きに疑問を感じた記憶がある。1950年警察予備隊―1952年保安隊―1954年自衛隊設立の流れに少年ながら軍隊をイメージしたのだろう。ちょうどこのころである。タイトルは忘れたが、姉の書架の本にあった1956年の砂川基地拡張反対闘争の記述に胸を熱くしたことがある。警官隊と学生の流血事件である。

高校2年のホームルームの時間だった。担任の教師が突然、学生運動批判を始めた。彼は私が進学をめざす広島大学出身の英語教師であった。要するに学生運動をするなという説教である。私はそういうものかと簡単に納得した。そして広島大学に入学した。

この大学が自らの人生を決めてしまうなどと誰が予想しえよう。父母は順調に卒業し、地元に教師として帰ってくると信じて疑わなかった。

だが私は入学早々、青天の霹靂の経験をするのである。大学正門の前には原爆記念病院があった。そして時々、ラジオからその病院で被爆者が亡くなったとのニュースが実名入りで流れた。

私は仰天した。私は知らなかったのだ。こんなに原爆の傷痕が生々しく残っているとは。受けた衝撃は尋常ではなかった。それ以来、頭をたれながら正門を通過するようになり、ついには裏門からキャンパスに入るようになった。

(青木忠)

迫られる鳥獣管理計画の取組見直し(イノシシ、シカ、カラス)

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ひょっとすると梅雨の晴れ間に出会うかも―と、夜空を睨みながら”天の川”を探してみたが今年のタナバタさまは霧雨に包まれたまま。

年に一度のヒコ星とケン牛のデートも来年までおあずけと思い、いんのしまスーパー田熊店の駐車場を横切ろうとしたところイノシシが出てきた。よく見ると可愛いうりぼう(幼児のラインが識別できる)6匹の子ども連れ。刺激しないようイノシシに通り道をゆずった。

なにしろイノシシと事故をおこしても保険の対象にならず当てられ損。ケガでもすれば笑われ損。イノシシが農作物を掘り起したり、食べ荒したりする農作物被害は昨年度までの中国5県10年間の平均8億円をオーバーしている。

因島周辺島しょ部では現在約千頭いると推測されるが、中国山地のシカの上陸はまだない。カラスの被害に頭が痛い。環境省の推計では中国地方にはイノシシが約16万頭。シカが約17万頭いる。各県とも鳥獣管理計画など引きあげて取り組まないと手遅れになってしまいそうだ。

(村上幹郎)

砂文字短歌大会 戦後70年テーマに講演

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因島などで活動する砂文字短歌会の大会が6月28日ポートピアはぶで開催された福山、安芸高田、大竹、呉などの愛好家を含め、30人が出席した。

広島県歌人協会会長の小山美恵子さんが、「戦後70年」をテーマに講演(歌話)を行なった。

「戦争詠と戦後 手渡し手渡されてゆく歌」と題して北原白秋など20人の歌人の60首を紹介し、解説を行なった。

つづいて参加者がそれぞれ、自ら選んだ歌5首を披露し、それについての合評を行なった。

砂文字短歌大会 砂文字短歌大会 砂文字短歌大会

四国遍路スケッチの旅【49】77番札所 道隆寺(香川県多度津町)

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77番札所 道隆寺(香川県多度津町)

77番札所 道隆寺(香川県多度津町)

69番観音寺を済ませ、道順の都合で7ヶ所を後日に回し、一足飛びにここ77番道隆寺に来た。理由は、もう一つ別格18番海岸寺を経由したことにもよる。

さて、ここ道隆寺の山門を入り、参道の両脇に並ぶ観音像と大師堂に寄り添うように建つ多宝塔に着目しスケッチすることにした。

前回は、大師堂前に大師にひざまずいて許しを請う男(衛門三郎)の像を配してスケッチしたことを思い出しながら、その像の少し横の風景を描いた。

今日は、次の78番郷照寺を済ませて瀬戸大橋を渡って帰路につく予定だ。

(絵・文 大橋博)

水清ければ魚棲まず。貝よ、おまえもか

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水清ければ魚棲まず。貝よ、おまえもか―と、言いたくなる。中国の孔子のたまわく「水到りて清ければ則(すなわち)魚無く、人至りて察(さつ)なければ則ち徒無し」。

魚心あれば水心―。瀬戸内海の干潟がピンチに追い込まれ干満の差が大きい『大汐』の季節を迎えると海岸づたいのいたるところにアサリの干潟が姿を現わし潮干狩りに熱中するファミリーやグループの姿が海辺の風物詩となっていた。

やがて重厚長大産業が要因となって自然環境の破壊などでアサリが激減、漁協組合や福山大学など因島大浜町民らが共同研究、そのメカニズムの因縁関係を探っているうちに尾道市山波沖の「山波の州(す)」を4月から1年間の禁漁。漁場を管理する松永湾水産振興協議会が9、10月に耕運機約10台を投入、アサリの成育環境の再生をはかる。

福山大学チームをはじめ尾道市内5漁協の6月下旬の調査結果は予想以上に悪く、禁漁がダメなら干潟を掘りかえしてアサリが生息しやすい土壌づくりに挑戦する。

(村上幹郎)

「海の日」記念図画 コンクール金賞5人

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中国運輸局因島海事事務所は、20日の「海の日」を記念した図画コンクールを行なった。因島・瀬戸田地区の小学生5人が金賞に輝いた。さらに銀賞5人、銅賞5人、入選35人。出品作品159点。

21日~24日、ポートピアはぶ物産エリアですべての出品作品が展示される。

金賞

村上涼輔(瀬戸田小1年)
村上涼輔(瀬戸田小1年)

村上庵(因島南小2年)
村上庵(因島南小2年)

養學孜俊(瀬戸田小3年)
養學孜俊(瀬戸田小3年)

岡田りん(重井小5年)
岡田りん(重井小5年)

柏原光(重井小6年)
柏原光(重井小6年)


おとまり道場 中庄の光明寺

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因島中庄町の光明寺は8月1日と2日、境内で「おとまり道場」を開く。主催は光明寺与楽会。小学校3年から6年が一泊し、寺生活を体験する。

定員15人。会費2000円。締め切り7月20日。

【問い合わせ・申込み】TEL0845-24-0078光明寺

おとまり道場

2011年度の様子。「寺の生活体験を通じた夏休みの思い出作りに、小学生8人が参加した。仏の教えの説明をうけ、ゲームなどを楽しんだ。座禅、朝のおつとめを体験した。」

内海造船因島 乾貨物船「アフリカンジェイ」完工

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内海造船(株)因島工場で建造中の乾貨物船「アフリカンジェイ」が10日、完工した。

全長=183メートル▽幅=30.60メートル▽深さ=14.50メートル▽総トン数=2万3750▽載貨重量=3万7705トン▽乗組員=25人▽航海速力=約14.1ノット▽船籍=バハマ。

アフリカンジェイ

内海造船因島 乾貨物船「アフリカングラウス」進水

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内海造船(株)因島工場で建造中の乾貨物船「アフリカングラウス」が15日、進水した。完工10月中旬。

全長=183メートル▽幅=30.60メートル▽深さ=14.50メートル▽総トン数=約2万3850▽載貨重量=3万7700トン▽乗組員=25人▽航海速力=約14.1ノット▽船籍=バハマ。

アフリカングラウス

来夏の参院選挙に向け因島高校3年が模擬投票

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来夏の参院選から18歳以上の選挙権が実施されることになったことを受けて、因島高校3年生が15日、模擬投票を行なった。

その日、同校生徒会執行部役員9人の選挙が行なわれ、信任投票という形をとった。

その投票で3年生は、尾道市選挙管理委員会から借用した、実際の投票箱と記載台を使用して投票した。

107人が出席番号順に6人ずつ、2カ所に設けられた投票所に移動。受付をして投票用紙を受け取り、立会人のもとで記載し、投票箱にそれを入れた。

因島高校3年が模擬投票

評判の無農薬野菜「であいの家」利用者が栽培 因島総合支所などで販売

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因島総合支所ロビーなどでの販売で知られる「であい農園」の無農薬野菜。

社会福祉法人若葉の「因島であいの家」の利用者が因島中庄町の3カ所の畑で作っている野菜が、話題を呼んでいる。

今年で4年目。利用者4人が農作業にあたる。年間30~50種類の野菜を栽培。評判の良かったものを厳選し、翌年も引き継ぐ。

口コミや、SNS(フェイスブック)での収穫の様子やレシピを紹介することで固定客を増やしている。

「利用者のメンバーは、コツコツと楽しんで時間いっぱい作業をしている。売上の一部が工賃となる。たくさんの方にここの野菜を知って買っていただくことが、彼らが施設の外でも仕事として成り立つようになるまでの支援になる」と職員が語る。

  • 因島総合支所1F(火曜日、午前10時~午後2時)
  • 因北中となりの「ひだまり」(木曜日、午後12時45分~同1時15分)
「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜 「であい農園」の無農薬野菜

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