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Channel: せとうちタイムズ(尾道市因島・瀬戸田地域の週刊新聞)
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日本建築士会連合会 濱田昌範さん優秀賞(因島土生町出身)

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因島土生町出身の濱田昌範さん(濱田昌範建築設計事務所)が30日、第43回日本建築士会連合会賞優秀賞を受賞する。

濱田昌範さん(濱田昌範建築設計事務所)

濱田昌範さん(濱田昌範建築設計事務所)

対象になったのは、濱田さんが設計した福山市の住宅写真下。場所は藤井川の河口付近。そこは河川氾濫浸水が想定される土地である。

この敷地に家族3人のための最小限住宅を計画し、補強範囲と浸水被害を極力小さくすることを最優先。

1階を最小限の面積に留めた鉄筋コンクリート造とし、2階は軽く少ない材料とするため、近隣地域材を使用した木造とし、構造と仕上げを一体とした。

敷地の持つ悪条件を克服しながら新たな価値観や心揺さぶる提案に挑戦した。

軒家(NOKIYA)

軒家(NOKIYA)

濱田さんは因島高校を経て神奈川大学に進学。卒業後に東京の設計事務所に勤務。1997年に独立し、尾道市山波町に事務所設立。

今回受賞する作品は、昨年のひろしま住まいづくりコンクール優秀賞。瀬戸田町の古民家再生の作品も同コンクールで最優秀賞。

「自然エネルギーをフル活用して暮らす木造の家」を設計上の立場とする。

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はっさくんテレビ出演 フリーラインスケート披露

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全国ゆるキャラグランプリに再挑戦している因島イメージキャラクターの「はっさくん」は、11月16日(月)の投票締切に向かって精力的に活動している。

22日、テレビ新広島「満点ママ因島特集」に出演し、フリーラインスケートを披露した。

はっさくん

フリーラインスケートを披露するはっさくん

広島県内で最大のライバルは「ヒロシまりんちゃん」。18日には、あわや追い抜かれ、県2位に。23日現在は再び県1位(全国総合93位)の座を取り戻している。

締切りまでの半月、厳しい戦いは、まだまだ続く。

ヒロシまりんちゃん

ヒロシまりんちゃん

四国遍路スケッチの旅【60】23番札所 薬王寺(徳島県美波町)

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23番札所 薬王寺(徳島県美波町)

今朝は、距離にしては最も遠路の室戸岬方面への出発だ。前回は、南国高知方面からの逆打ちだったが、今回は徳島方面から道順に沿って室戸を目指す予定。

長距離を予定して早朝5時に自宅を出た。途中23番札所の薬王寺も忘れてはいけない。その薬王寺へ到着したのが午前9時30分。

はやる気持を抑えながら33段の女厄坂、42段の男厄坂を、さらに61段からなる本堂へと石段がやけに続く。

めずらしい朱色の塔が目立ち、前回と同様薬王寺のシンボルの瑜祇塔(ゆぎとう)をスケッチす。はやる気持がスケッチに表われた。

(絵・文 大橋博)

23番札所 薬王寺(徳島県美波町)

「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【31】第六章 最後の旅路

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私が頻繁に訪れていたころとくらべ那覇は大きく変わっていた。その変容ぶりに当初、面食らった。そのことを思い知らされたのは、那覇空港から対馬丸記念館への道のりを調べている時であった。

私は三十年前と同様、空港から那覇中心部への交通手段がバスと乗用車だと想定していた。ところが十年以上も前に沖縄都市モノレール線が開通していたのである。すっかり狼狽した。9月8日付の野原さん宛メールに記した。

冒頭から恥ずかしいことを告白せねばなりません。

数日前に、空港と首里間にモノレールができたことを初めて知りました。私が沖縄に度々、仕事ででかけたのは三十年前です。それから全く行かなくなりました。もう沖縄に旅することはないと思っておりました。

こうして私は、時代の流れと沖縄の変化を一つひとつ慎重に確かめながら那覇に向った。まず驚いたのは、那覇空港が大きくなっていたことである。当然、そこの賑わいも半端ではなかった。少々戸惑いながらモノレール駅改札口に向った。

モノレールも混んでいた。大半が観光客のように思えた。特に目立ったのがアジア系の乗客だった。中国語だろうか、活発な会話がつづいていた。車内から見渡せる街並みもこれが同じ街だろうかと思えるほどの著しい変貌ぶりだった。

向う先は対馬丸記念館である。県庁前駅で下車した。地理に自信を失った私は、タクシーを使った。そして運転手に矢継ぎばやに質問した。

「那覇は変わりましたね。道路が広くなり、車の量が多くなりましたね」
「そうだね、変わりましたよ」
「国際通りもそうですかね」

那覇市最大の繁華街で有名な国際通りのことを尋ねた。

「うん、変わったね。自分なんか行かないよ」
「どうしてですか」
「そこへ行っても買う物なんかないもん」

彼は、その通りが内外の観光客で占められており、地元の住民はほとんど近づかなくなっていると説明した。

眼前に対馬丸記念館が現れた。何か夢みたいだった。ホームページで何度も見たが言うまでもなく、実物は初めてである。玄関は2階である。入口の受付で「因島からやってきました青木です」と挨拶すると間もなく事務室に招き入れられた。

興奮気味に名刺交換を済ませるや否や、コピーしてきた資料を次々手渡して自己紹介に懸命になった。そして気配で野原さんを追った。空港から彼女に電話をしたばかりだから事務室にいるはずだ。

実は野原さんの顔を私は知らないのだ。もっぱらメールを使っての交流である。電話での会話も二、三回しかしていない。随分不思議な感覚であった。メールの交信を繰り返すうちに親近感を増していったが、顔や姿に接したことがない。

やがて「野原です」と声がして私は顔を向けた。「この人が野原さんだ」とすぐさま「青木です」と応え、名刺を渡した。この瞬間である。「夢ではない。本当に那覇市の対馬丸記念館にやってきたのだ」という実感が湧いた。

夕方、野原さんに時間をとってもらい、会話の機会を得た。メールで互いに交わした内容の意味を実際の会話で確かめたかったからである。

那覇での私の活動計画を話し、彼女の意見を聞くことで明日に備えた。久しぶりの那覇の夜であったが外出することもなく、落ち着いて過ごせた。

(青木忠)

因島と司馬遼太郎さんの縁 戦友の橋本輝昭さん

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前号に続いて司馬遼太郎にスポットをあてておきたい。そもそも因島と司馬さんの結びが戦争ということだから縁は異なものである。学徒出陣で隣り合わせになった戦友は橋本輝昭さんといい終戦後父母のいる尾道市因島へ復員した。ひと口に言えば似た話はよくあることだ。

司馬さんは「橋本君は命の恩人だ」とよく口走っていたが具体的に話題に上がったことはない。しかし、司馬さんの運動神経や体力からおもんばかるに橋本さんに助けてもらうことが多かったことはたしかである。

新聞社内には小説を書いている記者は何人かいた。特に司馬さんは小説を書いていることは、なんだかはずかしいことのようにおもえて、社内の人にもほとんど話さないから、直木賞受賞のニュースが入ったときも「へえー」と同僚社員はあっけにとられた。それからが大変。当時、司馬さんはサンケイ新聞社文化部デスクだったので部下に「直木賞受賞作家」を紹介する欄の編集で、自分のことを取材させるはめになった。

(村上幹郎)

初年兵時代の橋本さん(上右)と司馬さん(下)。2人とも眼鏡。

初年兵時代の橋本さん(上右)と司馬さん(下)。2人とも眼鏡。

空襲の昭和20年度 土生幼稚園の日誌 戦争の日々を綴る

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本紙の青木忠記者は8月から9月にかけて、因島空襲に関する情報公開を各行政機関に求めた。

その第一は尾道市消防局長宛のものである。内容は

  1. 御調郡三庄町(現在の尾道市因島三庄町)役場作成の昭和20年7月28日の同町7区・8区などへの空襲被害調査書類。
  2. 三庄町警防団の昭和20年度の日誌。

これへの回答は、該当する文書が存在しないというものである。

第二は、広島県警本部長宛のものである。その内容は、昭和20年7月28日空襲に関する因島警察署の実態調査の書類である。

これに対して、「警察百年史 下巻」の第15章第1節「県下の空襲被害」の草稿が開示された。

第三は、尾道市教育委員会に求めた、昭和20年度の土生幼稚園(現在の因島南認定こども園)の保育日誌=写真=である。これは公開された。

昭和20年度の土生幼稚園(現在の因島南認定こども園)の保育日誌

開示された、70年前の土生幼稚園保育日誌は、すでに公開されている、同時期の土生小学校日誌とともに極めて貴重な歴史資料と評価できる。

日誌は、空襲下の土生幼稚園の日々を記録しており「入園式挙行」の4月5日(月)から始まっている。

4月13日(金)に「警報発令ス(午前一〇時半)」とある。4月16日(月)には「一〇時四〇分警報発令ニ付休園ス」。
同様の記入が次の日付けにある。

4月28日▽同30日▽5月4日▽同5日▽同7日▽同10日▽同11日▽同14日▽同15日▽同16日▽同17日▽同21日▽同23日▽同25日▽同28日▽6月1日▽同7日▽同15日▽同21日▽同22日▽同25日▽7月5日。

なかでも5月5日の「午前一〇時一五分頃警報発令サル敵大型機多数通過」の記述が注目される。

公式には因島空襲は3月19日と7月28日の2回とされるが、当時の体験者のなかには、「5月頃に空襲があった」と証言する人がいる。

3カ月半の休園

土生幼稚園は7月7日、休園になる。その日の日誌に「本日ヨリ休園ス、園児乃母姉ヲ召集ス」とある。

開園するのは10月18日である。およそ3カ月半の休園である。記述にはないが空襲の激化と戦後の混乱がその理由だったのではなかろうか。

その間、日誌は書かれていない。この日誌の空白こそ、いかに空襲が激しかったかを物語っている。

因島キッズフェスタに約3000人

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18日、因島フラワーセンターで第4回因島キッズフェスタが行なわれ約3千人でにぎわった。竹とんぼ、けん玉、フラフープなどが人気が集めた。

因島フラワーセンター キッズフェスタ

手作りの竹馬に乗って遊ぶ親子

内海造船瀬戸田 貨物船が完工

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内海造船瀬戸田工場で建造中の貨物船「第三はる丸」が28日、完工した。

全長153.92メートル▽幅25メートル▽深さ17.50メートル▽総トン数8558▽載貨重量4990トン▽乗組員14人▽航海速力=約21ノット。

貨物船「第三はる丸」


因島南小学校 第1回音楽発表会

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24日、因島南小学校で第1回音楽発表会が開催された。全校児童391人による力強い合唱が、コの字に客席を囲んで体育館に響いた。太鼓クラブの演奏も行われた。

因島南小学校 第1回音楽発表会

因北小学校で重井産メロン 地産地消学習

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因北小学校(早間貴之校長)の4年生54人が26日、因島重井町でマスクメロンを栽培する村上智規さんを招き地産地消の学習をした。村上さんは種まきから収穫まで説明し、「地産地消は、生産者が分り、すぐ近くから新鮮なものが届く。給食で食べて欲しい」と語った。

村上さんが所属する因島農業青年協議会は、因島・瀬戸田の小学校給食に年間25品目を提供している。重井産メロンは10・11月が旬である。

村上智規さん

村上智規さん

村上智規さん

本因坊秀策茶会艶やか 囲碁記念館に200人

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第5回本因坊秀策茶会が25日、本因坊秀策囲碁記念館の生家で開かれた。200人が参加し、会場は艶やかな雰囲気につつまれた。秀策の遺品や囲碁に関する資料の鑑賞をしながらお茶を味わった。

席主は公益財団法人煎茶道方円流瀬戸内支部。茶会に出された菓子は、松愛堂がこの日のために作った。

ゆるキャラグランプリ はっさくん 広島県内1位奮闘中 総合80位台に

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ゆるキャラグランプリに再挑戦している因島イメージキャラクターのはっさくんは、、広島県一位をキープし、全国総合ではついに89位に食い込んだ(30日現在)。

締切りの11月16日まであと約2週間。運営部会は、さらなる投票を呼び掛けている。

写真は25日、因島高校同窓会広島支部総会にかけつけた、はっさくん。(リーガロイヤルホテル広島)

はっさくん

はっさくん

土生・上島・三原航路 因島モールに桟橋設置 高まる住民の期待

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因島モール桟橋

土生商船(株)、(株)ユーホー、(株)ハローズは23日、因島・上島・三原航路の因島モール桟橋を設置した=写真。浮桟橋の縦6メートル、横18メートル。渡橋の幅1.5メートル、長さ15メートル。続いて待合室と通路の工事を行い、12月1日の運用開始をめざす。

予定される便数は従来通り12往復。片道料金(大人)は生名―田熊330円、田熊―三原1000円、土生―三原1260円が予定されている。三原港最終便が午後9時10分から同10時頃に変更予定。

高速船の田熊町の因島モール寄港は、新しいサービスの開始となる。同モール周辺の島しょ部の生活文化の発展に繋がると期待されている。

とりわけ上島町と因島田熊町などの住民の通院、通学、買い物の利便性の向上である。

三原港から尾道総合病院(JA病院)や三菱三原病院などへの通院がしやすくなる。港から両病院への無料送迎バスが運行されている。

三原方面への通学者にも朗報である。自転車で桟橋に向かい、乗船することが容易になる。上島町の住民にとって、因島モールなどでの買い物が気軽にできるようになると予想される。

船が、車を使えない高齢者の外出の手助けになる。

因島モール桟橋の設置によって住民の期待が高まっている。因島田熊町の岡田公生さんは次のように語る。

「町の表玄関だった田熊港が復活するような気持です。生名や弓削の人も喜んでいると思う。田熊の活性化が全体の活性化に繋がれば良いですね」

田熊桟橋の定期船利用の終了は、1983年12月の因島大橋開通と同じ時期である。それまでは、因島―三原、因島―尾道の定期船が停まっていた。

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遷宮工事が完成した出雲大社と国宝に指定された松江城

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ひと雨降って紅葉の季節がやってきた海より山間部を選ぶ行楽客。ツアーを計画する先週のことである。あるグループが毎年のように大山の紅葉を目標にしているが一度も満足した天候にめぐり合ったことがないと言葉をにごす。

そばにいた友人が10年も続いて霧につつまれた大山によほど縁がないのも何かの縁でしょうと受け流した。秋の山の変化は目まぐるしい。「秋雨は馬の背を越さない」とか「男心(女心)と秋の空」など口さがない。ともあれ秋の空は瀬戸内海の夕日は見る人によってこれほど心打たれるものはない。

今秋の観光客の流れは天候が良かったのと尾道―松江間の高速道路全通などで不便とされていた川に沿った曲がりくねった路面が山谷の架橋などで整備されたこともあって前年比1.5倍の通行車両。お目当ては60年ごとの遷宮工事が完成した出雲大社と国宝に指定された松江城がお目当て。この2個所とも島根半島内で宍道湖から橋を渡らなければ行けないことをご存知なのだろうか。

(村上幹郎)

四国遍路スケッチの旅【61】24番札所 最御崎寺(高知県室戸市)

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24番札所 最御崎寺(高知県室戸市)

24番札所 最御崎寺(高知県室戸市)

23番薬王寺から80キロメートル近くある長丁場。途中、別格鯖大師、「空海」という名の由来になった「御厨人窟」、2つの巨岩がしめ縄で結ばれた「夫婦岩」など。

室戸岬までに見どころに立ち寄り、荒々しい波が打ち寄せる海岸沿いを快適にドライブ気分で走る。

室戸岬へ着いたのは13時も過ぎていた。最長距離の札所24番最御崎寺は岬の高台に位置し、参拝後本堂をスケッチ。

折角室戸岬まで来たのだから直ぐ帰るのも惜しい気がして室戸岬海岸に立ち寄り、ここでもスケッチ。

穏やかな好天気に恵まれて大変ラッキーであった。

(絵・文 大橋博)


「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【32】第六章 最後の旅路

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沖縄行きは、偶然だが沖縄県知事選挙と重なった。最終日が選挙の告示日だった。宿泊したホテル近くに現職の事務所があり、せわしく動く運動員の姿が見えた。「菅原文太氏来る」のポスターが貼られていた。新人候補の応援のためである。

三庄空襲で亡くなった仲宗根さん一家調査のための沖縄訪問の目的をふたつに絞った。ひとつは対馬丸記念館を訪ねること。もうひとつは、沖縄の二大紙の取材を受けることである。

初日、那覇空港から対馬丸記念館に直行した。そして理事、学芸員、職員の方々と懇談することができた。事前に学習したことで私の対馬丸事件への関心は急速に高まっていた。

対馬丸遭難者遺族会が発行した「記録と証言 あゝ学童疎開船対馬丸」の帯には、「沖縄戦最大の悲劇」と記されている。しかし、この大惨事について箝口(かんこう)令が敷かれた。「話してはならない」という命令が新しい苦しみを生みだしたという。

事件の調査活動においても大変な苦労があったであろう。記念館公式ガイドブックに挟まれている「対馬丸に関する基礎データ」という文書には次の記述がある。

「対馬丸」に関する確かなデータは一つもありません。今では考えられないことですが、当時は細部にわたる被害実態調査がされませんでした。このことも対馬丸撃沈事件の本質として、ぜひ語っていただけたらと存じます。

今なお懸命な調査が継続されている。様々な困難をのりこえて活動をつづける対馬丸記念会に私は発奮させられたのである。

二日目の午前中に琉球新報の取材を受けた。私はここぞとばかり、想いを伝えた。翌日の新聞に載った。

青木さんは、1969年の4・28沖縄デーの際、沖縄返還問題をめぐる政治集会で演説し、破壊活動防止法(破防法)の扇動容疑で逮捕された経験を持つ。

帰郷後、自分が体験した因島空襲について調べるうちに出会った、沖縄出身の母子の存在。「沖縄の問題について何も知らなかった」と自分を恥じ、「仲宗根さん一家のことを調べることに残りの人生をささげたい」と話す。

三日目の午後、沖縄タイムスの取材を受け、翌日掲載された。

青木さんは1969年4月28日、東京で沖縄の基地付き返還に反対する闘争を指揮し、破防法の扇動罪などで有罪判決を受けた。

政治から離れ、故郷の因島に帰ったのは91年。空襲で当時0歳の自分が九死に一生を得たことや、隣家で悲劇に遭った仲宗根さん一家が沖縄出身だったことを知った。

「沖縄問題はやり切ったと思っていたら違った。0歳から沖縄と関わっていた自分に残された仕事は、仲宗根さんをきちんと調べ、慰霊することだ」

琉球新報と沖縄タイムスは沖縄を二分する新聞である。それぞれ二度にわたり、大きく取り上げられたことに大きな充実感を持った。きっと私の調査活動によい結果をもたらすに違いない。

ガイドブックでしか見ていなかった記念館の展示をゆっくり時間をかけて見学した。そして野原さんに案内されて慰霊碑「小桜の塔」にお参りし、祈った。

理事と学芸員に同行して、那覇市歴史博物館で開催中の「十・十那覇空襲展」を見学した。那覇市に大きな空襲があったことを沖縄行の直前に知った私である。

(青木忠)

けんみん文化祭ひろしま文芸祭短歌で因島高校1年生5人入賞

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けんみん文化祭ひろしま」文芸祭(短歌)で因島高校の1年生5人の作品が入賞した。

【実行委員会会長賞】

  • あたたかな春を感じる街の中ネコのあくびも大きくなって(加藤諒)

【特選】

  • くれないの空の下には島々を抱いて束ねる瀬戸内の海(石原亜夕未)

【入選】

  • 今日こそは目標かかげ本気だすティーシャツの袖肩までめくる(村上京香)
  • 青い海オレンジ色に照らされて友と語るこれからのこと(角谷優香)
  • あの頃は大きく見えたひまわりが今では一緒成長したな(箱﨑樹羅)

東生口作品展 会場に力作並ぶ

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東生口作品展が1日、同公民館であり、午前中から住民で賑わった。

瀬戸田小学校と瀬戸田中学校の生徒、住民、寿楽園利用者の作品が会場いっぱいに展示された。

東生口作品展

瀬戸田文化祭 音楽芸能と展示

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第10回瀬戸田地区文化祭が31・1日、ベルカントホールを中心に開かれ、音楽芸能発表会、美術作品展示中庭のバザーに住民が詰め掛けた。

音楽芸能発表会では、広島県無形民俗文化財の名荷神楽=写真=など13演目が披露された。

名荷神楽

日米「友情の人形」戦禍を乗り越えて 土生幼稚園で保存

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昭和2年から戦禍を乗り越えて土生幼稚園に保存されていた、日米「友情の人形」の「メリーちゃん」=写真=が今年の6月、因島三庄町の因島南認定こども園にやってきた。

日米関係が悪化していた昭和2年、親日家の宣教師シドニー・ギューリック博士の呼びかけで「青い目の人形」およそ1万2000体が日本に届いた。

戦時中は、「敵国の人形」「スパイ人形」として多くが焼却処分された。しかし処分を忍びなく思った人々が人形を隠し、戦後に学校などで発見された。

現存する人形は平成22年現在323体。広島県内においては土生幼稚園を含め5体みつかっている。

統合に伴い因島南認定こども園(岡野美紀園長、119人)に届いた。7月の誕生会において、土生幼稚園PTA作成のメリーちゃんの紙芝居が上演された。

岡野園長は「土生幼稚園で勤務していた職員のおかげでメリーちゃんが来てくれた。大切に保管します」と語った。

メリーちゃん

 

メリーちゃん紙芝居

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