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Channel: せとうちタイムズ(尾道市因島・瀬戸田地域の週刊新聞)
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日本語スピーチ大会 8カ国の9人 生活体験などを発表

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尾道市などに在住する外国人による、第16回日本語スピーチ大会と交流会が15日、尾道市総合福祉センターであり、およそ150人が参加した。

スピーチしたのは、8カ国9人。いずれも流暢な日本語で、生活体験や母国の文化などを発表した。アトラクションには、浦崎こども詩吟教室が詩吟と舞を披露。お菓子と飲み物が出され、なごやかに交流を楽しんだ。

主催は、国際交流ボランティア・フィーラス華と尾道市国際交流推進協議会。

スピーチは次の通り。

「日本での生活体験」キム・デホ(韓国)▽「恩」チャン・メイフィ(シンガポール)▽「私の日本人に対しての印象」ヴェーヴァン・トゥエン(ベトナム)▽「私の留学生活で感じたこと」ランス・タオ(アメリカ)▽「日本での生活と日本の印象」アイシャ・ビビ(カナダ)▽「天災と日本人の克服法」ファム・アィン・クイン(ベトナム)▽「日本の思い出」ソウ・ケン(中国)▽「イギリスと日本の似ているところ」ディラン・ブレイン(イギリス)▽「インドネシアの新しい観光スポットの紹介」シャフィイル・アナム(インドネシア)=写真下


躍動の2017年【4】因島鉄工(株)ぴっかぴか工場を目指して誇れるものづくり

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創業は昭和29年11月。

平成元年、宮地秀樹氏が社長に就任。因島三庄町に本社工場、鉄工団地内に重井工場と機械工場を持つ。

宮地秀樹社長

宮地秀樹社長

事業は、造船事業部と機械事業部の2部門。船体ブロック、印刷機械や各種産業機械の加工から組立まで。昨年4月には、念願の開発室を設置し、将来的に製造メーカーを目指す。主な取引先は、新来島どっく、村上秀造船、三菱重工業などである。

会社として力を入れているのが、安全第一とぴっかぴか工場での誇れるものづくり。「整理、整とん、清掃」3S運動、「ムリ、ムダ、ムラをなくす」3M運動、「現場、現物、現実」の3現主義と改善提案運動に積極的に取組んでいる。改善提案活動では、月1回の表彰制度を設けている。これが安全、高い品質と納期確保など顧客満足度の向上、コスト低減につながる。

営業面では、フェイス・トゥ・フェイスの営業で顧客の要望に応えることを心がけている。

宮地社長をはじめ幹部による午前7時20分の安全祈願、経営理念の唱和で工場の1日は始まる。その後、社長が先頭にたち工場内を清掃。朝の挨拶をしながら従業員を迎える。

地域貢献にも力を入れる。恒例になっている因島三庄町の海岸としまなみビーチの従業員参加の清掃。小早レースやみなと祭りへの積極的な参加。外国人スピーチ大会には、同社の実習生が毎回参加し高い評価を得ている。

宮地社長は、「干支に因み、鳥の俯瞰の眼をもってお客様満足度を更に高め、本年を社員と共に成長してゆく会社の構築の年と位置づけ大きく羽ばたく佳き年にしたいと考えている」と新年の抱負を語る。

土生商船会長 弓場敏男氏死去

父のアルバム【42】第五章 苦難を越えて

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今回の写真は、父のお気に入りの母・行(ゆき)の写真である。これはどこかの写真館で撮影したもので、何枚も残っている。アルバムに3枚、他にそれぞれ大きさの違う三つの額に収まっている。おそらく父は行の死後、これらの写真の中にいる彼女とともに生きて来たのであろう。

この映像は、父のメモによれば昭和37年2月のもので、行は60歳である。高校2年生の私と母とが大学受験を巡って、この時期に繰り広げた攻防戦を今でも忘れることができない。

高校進学に込めた思惑は、私と両親では全く正反対であった。両親は、広島大学教育学部から学校教師への道を歩ませるために私を高校に進ませた。その想いは、「君の人生なんだから君自身で決めなさい」などというなまやさしいものではなかった。

私の高校進学の動機は、硬式野球部への憧れだった。小中学校を通じて野球に熱中した少年にとって第一義的なものは大学進学ではなく、野球でしかなかった。このチャンスをどれほど待望したことか。進学について言えば、野球を思う存分やりきった後に料理学校にでも進もうと漠然と考えていた。

高校入学が決まるや対立が明らかになった。私は当然、野球部入部への承認を両親に申し入れた。金銭的にも親の支援なくして部活動の継続は不可能であるからだ。しかし、帰ってきた返答は、「否」であった。理由は、「1年の時から部活動などせずに受験勉強に専念しなさい」というものであった。

私は落胆した。中学時代と同様に親が支援してくれると思い込んでいた私は目の前が真っ暗になり、まるで地獄に落とされたような心境になった。

引くに引けず、質問した。

「では、どうすれば野球をさせてくれるの。」

だが親は返事をしない。私は語気を強めて訊いた。

「広島大学に合格すると約束すれば、野球部入部を許してくれるの。」

「それならいいよ。ただし2年までだよ。」

親からの期限付きのOKが出たのだ。

「分った、広大に進学してみせるよ。」

私は何の根拠もなく安請け合いしてしまった。大学受験戦争の厳しさなどそのかけらも知らず、野球をしたいばかりに気合で約束したのである。

胸を高鳴らせて野球部の部室に直行した。硬式野球のある高校生活は私の青春になった。授業中にも、縫目がほつれた練習ボールを縫う作業をする、野球一色の日々を過ごすことになる。親との約束などどこへ行ったのか、勉強など二の次になってしまうのである。

やがて当然にもつけがまわってきた。1学期が終わるころ、学習成績が見事に落下して行った。学年200人中で140番位になってしまったのである。

さあ、どうするのだ。野球少年よ、起ちあがれ。世の中をなめてはいけない、と初めて思い知ったのである。巻き返しを心底から誓った。

和服のよく似合う、小柄な母であった。筆者の高校時代を思い起こさせる映像である。

(青木忠)

農産物品評会 岡野晃さん尾道市長賞

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JA尾道市因島フェスティバルが15日、因島営農センターであり、4000人が参加した。農産物品評会では、因島田熊町の岡野晃さんの紅八朔が尾道市長賞に選ばれた。

【尾道市長賞】紅八朔=岡野晃(因島田熊町)

【広果連会長賞】普通八朔=田中豊(因島田熊町)

【日本農業新聞社賞】不知火=柏原重子(因島重井町)

【組合長賞】レモン=岡野慎悟(因島田熊町)

【園芸振興協会長賞】キャベツ(冬みどり)=村上保右衛門(因島重井町)

【尾道市議会議長賞】わけぎ=村上豊(因島重井町)

ふるさとの史跡をたずねて【25】岡島城跡(尾道市向島町)

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岡島城跡(尾道市向島町)

岡島城跡(尾道市向島町)

船から鉄道への乗り換えは、いつも旅の始まりだった。尾道駅前桟橋はすでに無く、尾道駅もまもなく模様替えが行われる。懐かしい光景がまたひとつ消えていくのはさみしい。

思い出深い駅舎の前に立つと、対岸の岡島城跡の小山がよく見える。東隣の桟橋は自動車も運ぶ福本渡船の発着場。その航路と交差して、駅前渡船がレンタサイクルを運ぶ。入り江に入るフェリーボートは川を遡っているような珍しい光景を作る。しまなみサイクリングロードがここから始まる。

岡島は昭和5年ごろまでは名前の通り小さな島だった。尾道水道を見張る砦だったのだろう。「宇賀島(岡島)を陥せ」「向島が欲しい」「獲ったらやろう」というようなやり取りが小早川隆景と六代吉充との間で行われ、そのようになった。吉充は土生の長崎城から向島立花の余崎城へ移った。

岡島城跡から近い亀森八幡神社は除虫菊神社があることで有名だが、村上神社と旭神社もある。旭神社は余崎城と岡島城の城主だった吉充が川尻ゆかりの木曽義重父子を祀った。吉充が没後祀られたのが村上神社である。

(写真・文 柏原林造)

 

潮音山公園を清掃 瀬戸田高生ら百人

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瀬戸田町の国宝向上寺に隣接する潮音山公園遊歩道の清掃活動が26日、瀬戸田高の1年生、瀬戸田中の1年生、瀬戸田高同窓会「潮音会」、住民組織「潮音山を愛する会」の100人によって行なわれた。

8年前、瀬戸田高が「潮音会」の協力を得て始めたが、それに賛同した小中学生が合流した。この日、瀬戸田小の生徒は、インフルエンザのため欠席した。

因島病院内に響くハーモニカの音色 越智盛二さん

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因島総合病院内の整形外科ロビーに20日、ハーモニカの懐かしい音色と歌声が響いた。

因島土生町在住の越智盛二さん(男&女のカットハウス甲子園)が病院を訪れ、ハーモニカ演奏会を開いた。曲は、「北国の春」などみなお馴染みのものばかり。集まった40数人の患者も演奏に合わせて歌った。なかには涙する人もいた。


因島総合病院100周年「花と笑顔とおもてなし」 橋本洋夫病院長インタビュー

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日立造船健康保険組合因島総合病院は今年、創立百周年を迎える。

1917年(大正6)12月9日、90床余、内科、外科、眼科、歯科を有する病院として出発した。「従業員と家族のために」という理想をかかげた先進的な事業であった。

創設時の因島総合病院。長崎桟橋は現在のように整備されていなかった。

1943年(昭和18)1月、一般住民への診療を開始。以来、因島・上島・生口島をはじめとする島しょ部にとって欠かすことのできない医療機関として歩みつづけてきた。そして創立百周年を機に新たな歩みを始めようとしている。

この歴史的な節目にあたり、橋本洋夫病院長にインタビューした。

橋本洋夫病院長インタビュー

―百周年をどのように迎えようとしているのか。

私たちには次のミッションがあります。「花と笑顔とおもてなし」です。毎週月曜日に花を病院ロビーに活けています。患者様と職員と町の人に優しい病院だったらいいな、という想いです。

笑顔は一番の薬です。そしておもてなしです。患者様に対して正確に診断し、良い薬を提供し、良い処置をして、早く良くなっていただく。そのために聞き上手でありたい。

―記念行事について。

7月に第2回病院まつりを開催します。9月に百周年記念式典を行ないます。

―特に力を入れている取り組みは。

急性期の患者様に対して二次救急指定病院として24時間、365日の体制を内科中心にとりつづけています。なんとしてでもこれを維持していきたい。

慢性期の患者様には、因島・上島・生口島への訪問診療、訪問看護を行なっています。

―その他の課題は。

まず、町に入って行き、皆さんと交流を深めていくことです。病院まつりもそのひとつですが、尾道市の市民公開講座での講演、ケアマネージャーや民生委員との交流会、幼保小中高との交流などを行なっています。

若い世代との交流を重視しています。2年前から岡山大の医学生が実習に、また研修医が地域医療研修に来られています。そして医師以外の医療スタッフの現場も見学できるようにしています。

さらに、職員にリフレッシュをして欲しいと願っています。私の場合は、卓球と書が役立っています。カープ優勝もその効果があったと言えます。

父のアルバム【43】第五章 苦難を越えて

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私の大学受験戦争は高校1年の2学期から始まり、2年の秋に頂点に達し、それ以後、その水準を辛うじて維持することでめでたく最終目標に到着した。この過程での母の存在は大きく、母としてできる協力を全てやってくれた。

日頃から厳しい母であったが、受験勉強に関してなおさらそうであった。私の顔を見るや「鬼」の形相をして、「勉強しなさい」と叱咤激励した。彼女の基本姿勢は一貫していた。それは、褒めて成長させるというのではなく、叱って成長させるというものであった。褒められた記憶はほとんどない。

小学校六年の時のことである。私は急速に身長も伸び、周囲の人から「大きくなったなあ」としきりに声をかけられるようになった。ところが母に言わせれば、「ひょろひょろと大きくなって」となるのだ。中学生になっても、高校生になっても何一つ態度を変えなかった。

しかし、不思議なもので、母の姿勢にあまり反発を感じなかった。むしろ、受験勉強には大きな支えになったのである。とりわけ、母の存在は家庭学習を充実させるための強制力になった。

ところで私の受験勉強にとって、野球部活動との両立ということのほかにもう一つ解決しなければならない問題があった。それは、私がテレビ中毒であったということである。当時のテレビ番組はアメリカから持ち込まれた西部劇などのドラマが全盛で、私もそれらに夢中になった。

当然にも母はテレビを観てはならないと言ってきた。それに対して私は、「受験勉強も!テレビも!」と食い下がり、挙句の果てに「テレビ番組式受験勉強」を提案したのである。

私の観たい番組の時間帯は毎日、午後7時からの30分間と午後9時からの30分間にあった。その時間にテレビを観ながら夕食をし、お茶を飲むことにしたのである。

この効果は抜群であった。実に規則的に家庭学習がはかどったのである。建前では、勉強の気分転換にテレビを観るというところであろうが、実際のところは、テレビを観たいから勉強したのであろう。

このことでは母に苦労をかけてしまった。2度にわたって夕食の準備をさせたのである。1度目は、父と祖父のために、2度目は息子のために。振り返って見るに私は、大学受験に名を借りた「暴君」だったに違いない。高校の3年間、家族は私を中心に回っていたのであろう。はれものにさわるような想いで私を見守り、支えてくれていたのである。

大学受験は私の人生にとって最初の関門であった。にもかかわらず当初、それを突破することから逃げようとした。もしもそのままであったなら、私はその後も逃げつづけたであろう。それを正したのは、両親の力に他ならない。今やそれを率直に認めざるを得ない。

親の心配をよそに、スポーツに熱中した。因島高校1年の秋の全校マラソンでの筆者。

(青木忠)

父のアルバム【44】第六章 八朔と生きる

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父のアルバムを見続けてきて思い知らされたことがある。

それは、私が大学に入学してからUターンするまでのおよそ30年間の父の生き様をほとんど知っていないという事実である。ということは、その期間は没交渉だったということになる。

そうしたなかで、父が八朔とともに生きてきたのだということだけは理解できた。私の家族は、例え遠く離れて別々に生活していようが、柑橘畑で実った八朔やみかんなどによって繋がっているのである。家族の一人ひとりが、その畑にどのように関わったかについてそれぞれの想いを持っていた。

わが家の田畑について、父が昭和九年夏から作成した記録帳「家のこと」にメモが残っている。昭和19年の資料である。

田 自作 一石四斗
畠 自作
麥  二石
みかん
はっさく
ネープル
アンセイカン

この時期は祖父の時代である。自作とあるのは自作農のことである。しかし、専業ではなく兼業であった。祖父は船員、父は教員。家族をあげて農作業を行なっていたに違いない。

当時は稲作もやっていたが、戦後、病気の祖母の治療のために売却した。麥(むぎ)畠はじょじょに野菜畑や柑橘畑に変わっていった。柑橘は手広くやっていたようだ。いつごろから栽培を始めたのだろうか。

柑橘畑は長者ケ谷いう奥まったところにある。「ふるさと三庄」には次のように記述されている。

―因島ロッジの下の長者ケ谷は三庄三鎮守の一つで室町時代に総と称された各氏族の会合の場だった由で、源平の戦いに敗れた平家の武将、伊賀平内左衛門尉家長(伊賀氏の祖)の一族が暫く隠れていたとの伝説がある。

柑橘畑のあるところをわが家では、「山の神」と呼んでおり、そこに行くことを、「山の神に行く」と言っていた。平家落人伝説と関係があるのだろうか。

因島ロッジ(現在のホテルいんのしま)下のわが家の柑橘畑から、弓削島を眺める。忘れようにも忘れられない光景である。

ふるさとの史跡をたずねて【26】青木城跡(因島重井町)

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青木城跡(因島重井町)

多くの本に青木城跡の所在地として重井町龍王山と書いてある。県史跡に指定された時の所在地であるから間違っているわけではない。しかし、地図で見ると重井には龍王山(権現山)というのがあって紛らわしい。権現山には「とおみんさん」と呼ばれる尾根がある。遠見山のことで狼煙(のろし)の見張所の跡であるから間違って訪ねても無駄ではないが、注意が必要である。

永禄12年(1569)因島村上氏六代吉充は13年間いた向島から因島へ戻って、青木城に住んだ。この頃、小早川隆景が三原城の整備に掛かっており、隆景の指示によるものだと言われている。

七代吉亮、八代元充と3代にわたって本城とした。慶長5年(1600)、毛利氏の防長移封に従って因島から去るので、因島最後の30年ばかりが重井時代である。

青木城跡は海に接してないが、周囲は江戸時代に開発(埋め立て)されたところで当時は白滝山側を除いて三方が海に面していたと思われる。山頂の龍王神社の石碑と地王社の小祠の前から竹藪の中を東へ進むと、東の廓の向こうにフラワーセンターと白滝山が見える。長崎城、余崎城と同様に控えの要害だったことがうかがえる。

東の廓と白滝山

「天災時の日本人の克服の方法」尾道市第16回外国人日本語スピーチ大会より

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因島鉄工実習生ファム・アイン・クインさん(ベトナム)

皆さん、こんにちは、私の名前はファム・アイン・クインです。今年24才になりました。家族は6人です。兄弟は皆、結婚しています。だから、両親は、はやく私に結婚してほしいと言っています。でも、残念ながら、その願いはまだ叶えられそうにありません。私は2年前に日本に来て、現在、実習生として因島鉄工の船のブロックの溶接をしています。

私の生まれた所はハーティンと言う町です。ベトナム中部で天災はこの地方に大きな損害をあたえています。それと、私のふるさとでみなさんに一番印象に残るのは大洪水です。毎年5個ぐらい台風が来たあと、長雨のせいで洪水になっています。洪水の場合は電気もないし、食料もないし、いろいろなことが出来ません。私たちは、途方にくれて、あきらめをかんじています。しかし、実際は、ベトナムの天災に比べて、日本のほうが被害がひどいです。それで、今日は私はその問題について話します。

以前、私は日本にはしげんもいっぱいあるし、天災もないし、なんでもいい国だと思っていました。でも2年間日本に住んでみて、私の思いがだんだんかわっていきました。実際は、日本はしげんがあまりなくて、天災が続いて、日本人の一部分がまだ復興にがんばっています。それでも、日本は堅実な、経済成長をつづけています。そのあいだ、日本人はいろんな、いいところを教えてくれました。それと、日本の面白い文化や、生き方など学んできました。

一番かんしんすることは天災です。この数年、日本は地震と津波と台風におそわれています。昨年、熊本県に震度7の地震がありました。その地震のせいで何万軒もの家がこわれてしまいました。だから、おおくの人が車とか道路でねました。すると、みなさんはしずかにならんで、おにぎりや水をもらいました。避難場所にきちんとすわりました。奪い合いはなくて、誰もさわぎませんでした。はやばやと救助活動を始めたのをテレビのニュースで見ました。食料や水なども急いで運びました。

このことでも、やっぱり日本の小さい子供から大人までから、おてほんをおそわりました。そのうえ、地震が発生したら、ゆれを感じる前にスマホやテレビで緊急速報が流れます。初めて聞いた時は本当にびっくりしました。私は国へかえったら、この事を伝えたいと思っています。天災があっても、みなさんがおたがいに協力しあって、こんなんを克服しなければならないということを。混乱もないし、いいかげんなこともないし、静かに皆が協力しあうことが、被害を少なくする方法だと私も思っています。それに、高校生の時に私の先生は日本人はとても意志の強い人たちで、「神様はいつもあなたをどこかで見ていますよ。」と言って子供をしつける事があると教えてくれました。私は2年間の日本での生活で先生の言葉の意味が、やっとわかりました。みんなが日本人の信仰心にも似た伝統とベトナム人の強く負けない気持ちをとり入れれば世界中がよくなると思っています。今年一年、災害、事故のない年になりますように祈っています。いじょうで私のスピーチを終わります。みなさん、ご清聴ありがとうございました。

(終)

アルミ缶回収20トン 因島であいの家表彰

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因島大浜町の障害者施設「因島であいの家」が27日、アルミ缶リサイクル協会(東京)からアルミ缶回収協力者表彰を受けた。

同施設の20人が「いきいき事業係」になり、平成6年からアルミ缶回収に取り組んできた。平成27年1月から平成28年10月まで、約20トン回収した実績が評価された。表彰は平成20年度につづく2回目。

施設を訪れた同協会の保谷敬三企画委員長は、「アルミ缶は何度もアルミ缶として生まれ変わります」と語り、回収活動の意義を強調した。

私の瀬戸田日記【7】移住のハードルを下げたい

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移住のハードルを下げたい

半年間参加してきた「たちまちチャレンジ講座」の発表会が先日行われた。この講座は尾道で実現したい想いをカタチにするために、講師と受講生たちが切磋琢磨しながらマイプランを磨いていくもの。私のプランは「移住のハードルを下げたい」。

世間一般的に移住はハードルが高い。くだけて言うと「遠くに引っ越す」というだけなのに、清水の舞台から飛び降りるかのような風潮がある。巷にあふれる移住の手引きにも絶対失敗するな、移住してから合わないと思っても都会に居場所はないぞ、という脅しめいた文句ばかり並んでいる。

何も都会から一人でも多く地方へ呼び寄せよう!とは思わない。地方の暮らしもいいな、と考えている人に不安だけを煽るのではなく、人生の選択肢のひとつとして誠実な情報を提供していき、安心して移住してもらいたい。

この内容を別の機会に、著名なソーシャル系雑誌の編集長に熱く語ったところ「いま地方が面白いのは都会の人には秘密にしておいた方が僕たちだけでひっそり楽しめるよ」と冗談ぽく言われ肩透かしをくらった。でも地方が面白いという事実のお墨付きをもらったようでちょっと嬉しい。

尾道市地域おこし協力隊員森聖羅


因島・瀬戸田・上島 中学生が一日留学 全てが英語による授業

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尾道市と上島町の外国人英語指導教員(ALT)による一日留学体験「インターナショナルスクール」が29日、因北中学校で開催され、因島、瀬戸田、上島の中学生93人に参加した。ALTは11人、教諭13人。

尾道因島ライオンズクラブと因島教育ネットワークが主催し、この日、23人のメンバーが手伝った。

授業は全て英語で進められた。スポーツ、工作、料理、ダンスの4教科を英語を楽しみながら学んだ。

参加中学生は、因島南22人▽因北32人▽重井9人▽瀬戸田10人▽弓削7人▽岩城13人。

ALTは次の通り。

ソフィー・トンプソン(オーストラリア)▽ダイラン・ブレイン(イギリス)▽アイシャ・ビビ(カナダ)▽エリック・エルハーマー(アメリカ)▽マッケンジー・オウェンズ(同)▽フィリップ・ケンプソン(ニュージーランド)▽メイ・フィ・チャン(シンガポール)▽マリー・ファアット(トリニダード・トバゴ)▽ヒューズ・マイケル(アメリカ)▽マイケル・デベンポート(オーストラリア)▽エマニエル・ハーパー(アメリカ)。

五色百人一首大会 小中生ら競技カルタ

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第14回五色百人一首しまなみ大会(広島県かるた協会)が29日、大浜公民館で行なわれ、幼・小・中の40人が参加した。

五色に色分けされている百人一首の札を、今回は桃色と緑色の2色を使って行われ、参加者はその札の取得合計枚数を競った。

【小学生】

  1. 髙山葉子(福山・西)
  2. 原田せいら(広島・伴南)
  3. 兼利亮成(同)、河上夢叶(因北)
  4. 上川昇真(尾道・三成)、藤広ひなた(広島・伴南)、柳沼素佳(尾道・三成)、吉田悠人(因北)

【中学生】

  1. 深水春愛(尾道)
  2. 吉井健太(尾道・美木)
  3. 小早川玲緯(東広島・高屋西)、弓場さとか(広島・牛田)

【幼児】

  1. 兼利じゅんや
  2. 上川りゅうじ
  3. 畑ともかず、桝宗こう

内海造船瀬戸田 旅客船兼自動車航送船「カランセ奥尻」が進水

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内海造船瀬戸田工場で建造中の旅客船兼自動車航送船「カランセ奥尻」が27日進水した。完工予定は4月20日。

全長=約87メートル▽幅=15メートル▽深さ=9.6メートル▽総トン数=約3650▽載貨重量=約545トン▽車両搭載能力=8トントラック18台、乗用車48台▽旅客定員(6時間未満)=460人▽乗組員=16人▽航海速力=約17・5ノット▽船籍港=北海道稚内市

因島出身の絵本作家 カザ敬子さん講演会(2/26芸予文化情報センター)

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因島田熊町出身で、アメリカを拠点に絵本作家として活躍中のカザ敬子さん(旧姓田中)が26日(日)午後1時30分、芸予文化情報センターで講演会とサイン会を行なう。

演題は、「絵本の中の子どもの私~子ども時代を過ごした因島の思い出と絵本が出版されるまで~」。

講演後、サイン会を行なう。会場では、英語版の絵本も販売される。因島図書館主催、啓文社共催。

原画展同時開催

カザ敬子さんの絵本原画展が2月25日(土)~3月26日(日)、因島図書館で同時開催される。絵本「ラッキーラッキー」の原画など24点展示。

関連リンク

カザ敬子さん 

↓カザ敬子さんご本人が映っている動画です↓

↓My Lucky Day by Keiko Kasza(子どもによる読み聞かせ動画です。英語)

父のアルバム【45】第六章 八朔と生きる

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わが家の畑には家族の歴史が沁みこんでいる。それを中心的に担った曽祖父、祖父、父の生き様がそこに刻みこまれていると言えよう。

3人とも、女系家族ゆえに養子として迎えられた。曽祖父は明治16年、愛媛県生名村から、祖父は明治43年、福島県鏡石村から、父は昭和6年、御調郡山中村(現在の三原市)から入籍した。

わが家の農はおおざっぱに言って2つの時期に分けられる。前半が曽祖父とそれを引き継いだ祖父の時期であり、後半は父が担った時期である。

昭和5年に家督を相続した祖父は船乗りであったが、耕作に励み、家族の生活を大いに助けた。とりわけ戦時、戦後の食糧難の時代に家族を飢えから救った。

それに対して父の担った農業は、時代の変遷も影響して様相が一変した。生活のための農業ではなく、父の生きがいとしてのそれであった。いわば、ロマンとしての農業である。

私が中学に入学するや家族は実家に戻り、祖父との同居が始まった。このころ、祖父はひとりで畑仕事を行い、収穫など多忙な時には近所の主婦の力を借りていた。父は全く畑にはタッチしなかった。中学生の次兄や私は祖父の農作業を手伝い、鍛えられた。

柑橘畑は長者ケ谷という奥まったところにあり、当然ながら労働は厳しいものになった。そこに行くにはかなりの覚悟を要した。

谷底から数十メートル上がった斜面に道がついていた。それは、この谷に残る平家落人伝説を伺わせる細道だった。狭いうえに2カ所に急坂があった。人ひとりが歩ける道幅なので、大八車も通れない。運搬は全て人力だった。肥料や薪などは背負子(しょいこ)を使った。柑橘や芋など収穫物はイグリに入れ、サス(天秤棒)で担いで運んだ。野球少年だった私はもっぱら背負子の係りだった。肥料や薪など重い物を背中にしょって汗まみれになりながら細い坂道を上り下りしたものだ。

そのころのほろ苦い思い出がある。他界した祖母がさつま芋を入れたイグリをサスで担ぎ坂道を下る姿が私の遠い記憶に残っていた。そこで、祖母にできるのなら自分でもできるとやってみたのである。結果はみじめだった。くいこむサスの重みに肩が悲鳴をあげた。農作業は力でなく、技と粘りが肝心だと知ったのである。

柑橘の消毒作業も現在のモーターと違って、手押しのポンプだった。その作業の時には、次兄と私がその手押し役だった。全ての作業が終わるのに2日間。2人交代で押すのだが、かなりの苦痛を伴った。特に夏場の炎天下の消毒作業は地獄だった。もっともノズルを持って噴霧する祖父が一番重労働のはずなのだが、祖父が鬼にさえ思えてきて、辛くてしょうがなかった。

やがて祖父が心血を注いだ畑から離れる時が近づいてきた。あの屈強な祖父も年齢には勝てず、80歳を過ぎたころから次第に畑に行かなくなったようだ。そして85歳で死んだ。

(青木忠)

船乗りだった祖父は畑仕事にも汗を流した。猟銃でキジを撃ち、釣りも上手だった。

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