父の回顧は地元の小学校時代に移る。
《御調郡三庄小学校へ転任―戦時下の教育》
昭和11年4月転任、概ね六十余名の児童を担任、入試のあるクラスが多い、上海事変・日支事変と拡大し戦時態勢下の教育が行なわれ、短現以外の若い教師は次々に応召、30才代の教師は唯一人、学校教育、社会教育、戦時下の町内用務への協力、過労激務は続く。
高二男の卒業期を控え内申書を作成終了後、12月31日医師の診断は肺結核、17年1月から遂に欠勤し家庭療養の身となる。幸いにして二週間で解熱し快方にへ向う。
入試・就職・義勇軍送り出し等寝ては居れず、クラスの代表に指示する。当時は結核について全国的権威者尾道市の高亀博士の診断を受け大丈夫との旨、然し校医・学校長から出勤が許可されず。
止むなく日曜日の午前中二階に集めて入試の準備、また妻の協力で日立造船労務課(知人)へ交渉し30余全員パス内定、義勇軍は2学期始め決定済みであった。出発日等不明。
《敗戦と三名の義勇軍の結末―椋浦校転勤のため転居ししばらく不明》
漸く同級生等から知らされる。
柏原丈二君 体格すぐれ現地召集?入隊し戦死。後日家庭を訪ね仏前にお参り。
宮地勇君 同じ七区出身、家族も不明で会うことも無く、黒部の近くの大町に住み健在とか。連絡なし気掛りである。
父が退職校長会の冊子「義勇軍」にしたためた文章は、他界する直前のものである。すでに90歳に達しており、容易なことではなかったはずだ。よくぞこの時期にこの内容の回顧を残したものだと思う。その心境はいかなるものであったであろうか。
学生時代の私のあの一言とこの文章は無関係なのか、はっとさせられた。20歳の息子は父に尋ねた。「父さんは戦争の時に何をやっていたの」と問いかけたのである。父は苦悩に顔を歪めながら、「もうお前に話すことはない」と沈黙した。
父はこの冊子を私が見つけて読むと予測しただろうか。この冊子が発行されたのは、父と私のUターン後の同居が終わってしばらく経たころである。隣町にある持家での私の家族生活は軌道に乗っていた。
父はこの冊子の存在を一切知らせなかった。しかし私は、それを見つけ出し、読むことになった。こうして50年近くにもわたって断絶した父と息子の心はようやく繋がったのである。ふたりの昭和の旅は始まるのだ。
まず、師範学校に在学した父に会いに行こう。父はどのような時代に学生生活を過ごしたのか。この時期に人生の土台が形成されたに違いない。
(青木忠)