因島戸長の墓(因島重井町善興寺)
江戸時代は奇妙な時代であったが、明治時代は不可解な時代であった。それは、普通江戸時代が近世で明治時代が近代と呼ばれるのも原因の一つだと思う。近世という言葉に価値観を感じる人はいないと思う。しかし近代という言葉には斬新性と合理性が同居している。その明治時代は合理的で新しい社会であったかというと、必ずしもそうでなかった。それは明治維新が大政奉還・王政復古と呼ばれるように、極めて非近代的な体制をつくろうとしたのだから、当然といえば当然であった。
さて、宗教学者の末木文美士氏は、江戸時代以前からの伝統を「大伝統」、明治時代から敗戦までにできた伝統を「中伝統」、戦後の伝統を「小伝統」と分け、大伝統が変貌されて中伝統となった、すなわち、大伝統が、中伝統の時代に別の解釈をされるようになったものがあると指摘されている。(『日本の思想をよむ』、角川ソフィア文庫)そのことも明治時代をわかりにくいものにしている理由の一つである。
奇妙な江戸時代の幕藩体制を捨てるのだから紆余曲折があったのは当然であるが、明治初期には混乱を極めたものであろう。その混乱の跡を留めるのが地域の呼び名である。昭和28年に因島市が誕生する前は、島内の各町村は御調郡〇〇町、〇〇村であり、それはまた『芸藩通志』の分類にあるように、御調郡〇〇村で江戸時代を通してそのようであったと理解してよい。
明治5年正月にそれまでの郡村制が廃止され、割庄屋もなくなり、それに替わる大区小区制となり因島は第十大区十六小区となり戸長として明治7年4月柏原啓三郎が任命される。
柏原啓三郎の墓が重井町善興寺墓地登り口の歴代住職墓のすぐ上にある=写真㊥。写真の右は啓三郎の父の墓で、その碑文は啓三郎が明治9年に書いており長男(自分のこと)が明治7年に因島戸長となったことが記されている。
因島戸長(こちょう)も明治11年3月に廃止され村ごとの戸長だけになる。戸長がいるところが戸長役場である。因島戸長役場は現在重井郵便局のある辺りに置かれ、重井村戸長役場を兼ねたが、因島戸長が廃され村の戸長だけになると、重井村の戸長役場だけとなった。
(写真・文 柏原林造)
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